「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

自己犠牲は愛ではない

自己犠牲というのは、「誰かの幸せのために自分が不幸になっている」ということだ。

たとえば、子供たちのために自分が。
たとえば、親のために自分が。

自分が犠牲になっているという言い分は、「誰かの幸せは私の自己犠牲のおかげだ」と言いたい気持ちや、「自分の不幸は自分以外のせいで仕方ないんだ」と言いたい気持ちの現れだ。自分が犠牲にならなければ、その誰かの幸せはなかったと言いたいのだ。しかし果たしてそうなのか?

自分の犠牲がなければ、その誰かの幸せはあり得ないのか?
いや、そんなことはあるまい。
その誰かは努力して自力で幸せになれるはずだ。

他人から施しを受けなくても幸せになれる。他人からの施しは幸せの条件ではない。それにそもそも、庇護者の元での成功は庇護者がいなくなれば成立しなくなる。幸せというのは、概ね自身の気付きであり、自身の努力が実ることで得られるものだ。自分で発見し生み出すものだ。

ではなぜ他人の幸せを「自分の自己犠牲のおかげ」だと言いたくなるのか。
それは「他人の幸せには自分が必要」と言っていれば、自分の存在価値を錯覚できるからだ。
自己を肯定するための道具として、都合よく良い人でいられる便利な建前として、自己犠牲を使う。

進んで犠牲になってあげ、あれやこれやと手をかけてあげる。
甘やかして、世話を焼きすぎ、自分の理想を押し付け、相手の気持ちを押さえつける。
当人は自分で行う機会を失い、自分では何も選べない木偶人形になる。

自分に施される相手は自立できてはいけない。
それでは自分の出番がなくなってしまう。
自分は犠牲者を演じることに存在意義を見出しているのだから、無能でいてくれなければ困る。

また、こういう側面もある。

自分の不幸の原因は、概ね自分が努力していないからだが、そうは考えない人がよく理由にする。棚からぼた餅を狙ったお気楽な人生を送っていながら、他人よりも不利な条件にあるとか、がまんを強いられているからとか、努力しても意味が無い理由を探す。その「努力しても意味が無い理由」のひとつが自己犠牲だ。努力しないことへの免罪符。

良い人を演じることで自分の人生に向き合うことから逃げられる。その上、「他人のためにやりたいこともできなかった」という恨み言まで言える。

自分が犠牲になっているという人は、総じて自分に「人生の責任」を問わない。
自分は悪くない、自分は他人のために自分の時間を削ってエライ、自分は思いやりのある優しい人間だからと、自分の幸せのために努力していないことを正当化するための言い訳をする。

こんな風に、自分が我慢して相手のために行動することが本当の優しさだとか、本気で勘違いしているパターンは多いだろう。

お前のためと言いながら、子供の自由意思を尊重せず、自分の価値観を押し付けるだけの親。
そういう親が子供に伝えているのは、

お前のせいで我慢してやってる私はエライ
お前は私がいなければ何もできない無能だ
私の価値観は正しい、賛同しろ
私に感謝しろ
あとで返せ

ということだろう。
実際に口に出して要求するかどうかは別問題。そういう意志がこもっている。

「私は純粋に愛している、親としての責任を果たそうとしている、だからそんな意思はこもっていない!」と言いたければ、その前に自分を幸せにしてみやがれ。人生を楽しんで自分を幸せにしていく姿を見せることが誰かの幸せにつながる道であり、人生を呪い不幸の責任を他人に押し付ける姿は他人をも不幸にする道だ。

子供のためだの親のためだの、
自分の人生を取り繕うのに他人を利用する様は、
とても愛情ある行動には見えない。

自己犠牲は愛ではない。