なぜ戦争で人を殺すのが認められるのか
今日、「なぜ戦争で人を殺すのが認められるのか」という言葉をみつけたので書いてみました。
これをもうちょっと明確に表現すると
「なぜ人を殺してはいけないのに、戦争で人を殺すのは認められるのか」
という疑問になると思います。それでまず、戦争で人を殺すことは認められてません。戦争は禁止されていませんが、戦争では人を殺していいと認められてはいません。
これについて書く前に、国や社会をひとつの個体・人格として考えてみます。
ケース 1
Aさんが、じぶんのにきびを潰しています。衛生的に良くないし見映えも悪くなります。でも他人が言えることは「見た目が悪くなるよ」「不衛生だよ」「ばいきん入るよ」くらいのことで、「やめろ」とは普通言いません。
そいつの勝手です。
これはその国の死刑制度への態度と似ています。当人のルールで体を痛めつけるのを強制的に禁止できません。
ケース 2
Aさんが、じぶんの体の病気を苦にしています。実は当人の不摂生が原因ですが、周りの人たちには簡単に理解できても、当人はじぶんを苦しめる病気が憎くてそんなこと理解できません。
Aさんは病巣に焼きごてを当てて焼き潰そうとします。病巣の場所や大きさによっては死んでしまうかも知れないし、大きな障害が残るかも知れません。周りの人はやめた方がいいと止めます。
これもそいつの勝手です。
これはその国で行われる政治的な粛清と似ています。当人のルールで体を痛めつけるのを強制的に禁止できません。
ケース 3
Aさんが、暴飲暴食、酒、麻薬など非常に荒んだ生活をしています。迷惑な行動もしています。このままでは死ぬのは確実で、死なないとしても迷惑に変わりはありません。周囲の人たちはやめさせようとします。酒や麻薬を取り上げ、健康的な生活習慣になるように監視をします。
Aさんが、再び酒や麻薬に手を出そうとします。周囲の人たちは急いで監禁します。
ある程度まではそいつの勝手であるけれど、悪い方に進むのを見て見ぬふりもできません。
正常ではないと判断して、命を守るために自由権を奪います。
これはその国で行われる虐殺行為と似ています。明らかに正常ではない行いは人命尊重の観点から強制的に禁止する時があります。
ケース 4
Aさんが、長年の病(a)を抱えています。民間療法を色々試した結果、別の病気(b)も併発してしまいました。困ったことに、病気(a)の薬は病気(b)の進行を早め、病気(b)の薬は病気(a)の苦痛を大きくします。放置していると、病気は互いに影響し合ってどんどん悪くなって行きます。その人はどんどん衰弱して行きますが、医者も効果的な治療方法を見つけられないので、当人は苦しみに耐えるしかありません。病気はどんどん進行します。
これはその国の内戦と似ています。解決方法が無い場合、やめろといっても収まらないです。
ケース 5
Aさんが、じぶんの持ち物を壊されて激昂しています。相手はそもそもじぶんの物だったと言い張ります。周囲の人たちにはどちらの言い分が本当かわかりません。彼らは殴り合いのケンカを始めます。血も出るし骨折もします。ちょっと仲裁した方がいいかも知れません。周囲の人たちは「待て待て、それ以上はダメだ。話し合いで解決しようよ」と仲裁に入ります。
これは国家間の紛争と、和平仲介に似ています。
ケース 6
Aさんが、近所の人Bさんに言いがかりをつけられています。あることないことを持ちだして、謝れ、金を出せと言われ続けています。当人は争いごとは避けたいので穏便に対応していますが、近所の人BさんはAさんの車に傷をつけたり窓に石を投げたり、Aさんの留守中に部屋に侵入しようとしたり、どんどんエスカレートしています。
仕方がないのでAさんは防犯ベルと監視カメラを付け、警察に相談して巡回してもらうことにしました。Aさんは「Bさんが深夜に襲撃に来たらどうしよう」と不安になったので、金属バットも買っておきました。
これはその国の自衛方針と似ています。危険が迫っていたら守る備えはしますし、抵抗もするでしょう。
ケース 7
Aさんが、家の周囲に鉢植えを置きたいと思いました。一番置きたい場所は隣家Bさんの私有地でしたが、構わず置いてしまいました。理想的な景観になって満足していたところ、隣家Bさんからすぐに撤去するようにとクレームが入りました。
Aさんはこう思いました。「なんだよこのくらい、近所付き合いの範囲だろ!むかつく!」
隣家BさんはAさんから様々な嫌がらせを受けるようになり、ついにある時Aさんに殴られます。倒れて骨折しているBさんにAさんは襲いかかります。Bさんの事情を知っていた近所の人たちはすぐに救助に向かいます。暴れまくるAさんを取り押さえようとしますが抵抗されケガをします。「むかつくんだ!むかつくんだ!」とわめき続けているので、仕方なく近所のみんなでAさんを殴りつけました。
戦争で人が死ぬということ
戦争で人が死ぬということを「擬人化した国家が殴り合いでケガをする」という表現に変えてみました。こうして見ると、ケガをしても手に入れたいもの、守らなければならないものがある時は、ケガを厭わないことが理解できると思います。国家にとっての「戦争と人命の損失」は、個人にとっての「ケンカとケガ」と同じだと思います。はっきり言いにくいだけで。
「なぜ人を殺してはいけないのに、戦争で人を殺すのは認められるのか」という疑問の答えがすっきり出てこないのは、「人命を最優先にしなければならないという前提を無条件に正しいと決めている」からです。現実には人命よりも大切なものがあり、それを手に入れたり守ったりしたいから人命を犠牲にして戦争が起きるのです。
殺すことが認められているのではなくて、「失う人命以上の何かを守るためには殺すしかない状態」になっただけです。戦争は殺戮ゲームではないです。無闇に殺していいわけではない。だから人を殺してよいと認められているわけではないです。
幸福の衝突
このリンク先の文章で私は、【コミュニティの中では必ず幸福の衝突が発生する。】と書きました。個人を国家に変えてみれば、国家が所属するコミュニティとは国連を中心とした国際社会のことで、国際社会の中でも国家の幸福の衝突が発生するということになります。まあ当然ですよね。
幸福(利害)の衝突が起きたら、たいていの場合は話し合いで解決しようと努力します。武力は使わないにしても、威圧・脅迫・謀略を使う人(国)もあるでしょう。そういうものもすべて含めて外交です。この外交の極端に戦争があります。戦争は外交手段のひとつ。武力を使うのはやめようねって原則はありますが、武力を使う正当な理由があれば使うしかないです。
戦争は禁止できない
また、戦争は国連憲章で禁止されていません。
戦時国際法や国際人道法など参考になる情報を以下にまとめてみたので詳しくはそちらを参照してください。
- 国連憲章テキスト | 国連広報センター
- 戦時国際法 - Wikipedia
- 国際人道法 - Wikipedia
- 友好関係原則宣言 - Wikipedia
- 【国際法】戦争の正しいルール【実践編】 - NAVER まとめ
ともあれ、戦争のルールがあるということは、国際的に戦争は禁止されていないということです。武力行使をやめようねというのはあくまで原則です。なぜなら誰にでもじぶんの幸せを守る権利があり、それを禁止できないからです。幸せを守るために武力を使うしか道がないなら使います。他に道があっても武力を使った方がメリットあるなら理由を作って使います。じぶんの幸せを守ることが最優先ですから。禁止されてないですしね。
人によってはひどい考え方だと思うかも知れません。
でも、じぶんの幸せを守ることが他者の幸せを阻害することになった場合でも、じぶんの幸せを優先したいと思うのは当然でしょう。人はじぶんの幸福を他人に分け与えることができますが、それは余裕がある時だけです。余裕が無い時には当然じぶんを優先します。じぶんや、家族や、好きな人たち、文化、財産など守りたいものがあればあるほどそうなります。そこに善悪も人道もありません。
国家も同じです。分けられる余裕がどの程度かは個人や国家によって大きく異なりますが、余裕がなければ分けられないことに違いはありません。そして幸せを分け合えないとなれば、「より窮地に立っている方」はこの先を生きるために力で奪うしかないでしょう。武力を使うの絶対ダメ!ってことになると、死ねと言われたのと同じことになるかも知れません。
そういう事情ではなく他人の財産が欲しいから始める戦争もあります。侵略戦争です。
だから戦争全部ダメではなくて侵略戦争がダメ。
自衛権はOK。自衛のためと言えるなら武力は使える。
現代の国際社会では、このような形で部分的に容認され、部分的に禁止されています。このルールに合意している国が、国連に加盟してたりするわけです。
そして、ダメでもダメじゃなくても戦争になれば人が死ぬ。外交の極端というのは、もうそれ以外に方法がないからで、戦争以上にダメージを受けることがあるなら戦争を選ぶしかない。戦争で失う人命よりも大事なものを守るために。
「言うだけ人道主義」という立場
「人命は何よりも重い」「人命を最優先に考えるべきだ」という意見を言いたい人がいます。個人的には、言うのは勝手だと思うので好きに恥をかいていればいいと思っています。だけど、国連憲章とか戦時国際法とか国際人道法とか様々な国際条約とか法理論などを多少は踏まえた意見でなければ、理想論ですらない「個人的な思いつき」レベルのざれごとじゃないですかね。
よく検討してもいない理想を押し付けるだけで、他に方法がなくて困ってる人に対して「お前が生き残るためだろうと無抵抗でいろ。具体的な解決方法はじぶんで考えろ。」ってことでしょう。まるっきり無責任です。具体的な代案を伴わない意見はとても幼稚な主張です。
そういうわけで、個人的な思いつきレベルのざれごとを常識だとか守るべきルールだとかこうあるべきとか強弁するのは、私にはとてもかっこ悪く映ります。
最後に
ということで、私はかっこ悪くなりたくないのでこの文章も「わんこ先生のざれごと」に過ぎないと言っておきます。私が好きに考えた私の勝手な文章です。常識でも守るべきルールでも真理でもありません。みなさん読んでもいいですがこれはざれごとなのであとは各人が好きなように考えてください。