「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

向き合いはじめの一歩

ある日、ある場所での哲学対話。

宙空に浮かべられた問いを、みんながぼんやりと眺める。

どうしてそれが問われたのか、なにを問うているのかを考えることなく、まるでアンケートの設問に答えるように、次々に「自分はこう思う」という意見が述べられる。

論理も根拠も必然性も示されないままに、〈それ〉は唐突に話題を変え、迷走を始める。

焦点を絞らずに述べられる意見。

関連があるように見せかけた演説。

問いが求める答えを探りもしないままに語られるそれらの言葉たちは、受け取り手もないままに宙空でかき消え、誰にも、どこにも、届かない。



なぜ、〈それ〉を対話と呼べるのか。
自分の番になるまで黙って聞き、前の人の話に関係があるように装えば、それは俗な会話とは違って高尚な『ザ・対話』になるとでも言うのだろうか。



なぜ、〈それ〉を哲学と呼べるのか。
問いが指し示すものを見ずとも、示された問いを眺めて弄り回していれば、なにか不思議な力で哲学に変わるとでも言うのだろうか。



私は〈相手を喜ばせるためにする贈り物〉は本質的に攻撃と同じだと考えている。

攻撃というものは当たらなければ意味がないし、当たったとしても対象に影響がなければ意味がない。当てるための工夫も必要だし、影響を与えるための工夫も必要だ。どこでも当たればいいというものでもない。

そのためには相手を観察しなければならないし、どうであれば効果があるのか考えなければならない。戦車に石を投げて硬い装甲に当たったところで、戦車にはなんの被害もない。そんな攻撃に意味はないのだ。

どんなに豪華な贈り物であろうとも、相手のハートを撃ち抜くことができないのならその目的を果たすことはできない。無論、贈り物をしたという既成事実だけが欲しいのであれば目的を果たすことはできる。しかしそれは、〈相手を喜ばせるためにする贈り物〉ではなく、自分を正当化するための根拠づくりだ。

哲学も、対話も、そして愛も、この点では贈り物と一致している。この点とはつまり、核心を捉えない限り本来的に無意味という点だ。


問いに対してであれば、その問いが指し示したかったものはなにか、問いが満足する答えとはなにかと、問いが求めるものを看破せずに「問いに向き合う」ことはできない。


人に対してであれば、その人が伝えたかったことはなにか、その人が満足できる受け取り方とはなにかと、人が求めるものを看破せずに「人に向き合う」ことはできない。


なにか向き合おうとするなら、「寸分の狂いもなく捉えよう」「研ぎ澄まされた一撃で核心を突こう」としなければならないはずだ。それは、思いつくことを漫然と語り合うだけでは決して為し得ない。

思っていても簡単にはできないかも知れない。

けれど、やってみようとしなければ一歩目すら歩み出せない。