「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

対話は信憑に変化をもたらす

デキゴトは常に「ある視点からの事実の側面のひとつ」に過ぎない。

誰であろうと、全視点(神の視点)で捉えることはできない。だから、同時にひとつの視点しか持てない人間には「事実をそのまま見る」ことはそもそもできない。

そしてその「ある視点」は物語的な解釈の始点になる。デキゴトとは、ある視点から見える「縁起」を構成した物語だ。人間が、デキゴトを物語的に捉えようとするのは、物語的な解釈によって意味を創造できるからであり、そうでなければ意味を創造できないからだ。そしてなぜか、創造した物語を事実のように誤認していく。

物語は、それを信じたい人の中に信憑を生み出す。内的な直感や、外的な論理の裏打ちによって信憑を高めようとはするが、〈信憑の度合い〉の本質は「その人の持つ信じたさ」にある。いかに裏打ちしようとも、「信じたさ」が揺らがない限り信憑は変化しない。

この信憑を変化させるものもまた物語だ。

ある視点で構成された物語に、別の視点を組み込むことによって、物語のもたらす意味が変化する。そこに「その人の持つ信じたさ」を揺り動かす意味が備わっていれば、物語自体の意味は変化し、それによって「信じたさ」にも変化が現れる。

対話はこの信憑に変化をもたらす。