「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学対話の場はちっとも簡単ではない

たいていの哲学カフェでは、場の目的やルールがあり、ルールがあるところではルールの説明をする。でもそれに時間をかけるところは少ない。

お決まりだから?

これから対話を始めるのだ。それは好きなことを好きなように言い合うことではなく、あらたまって他者と誠実に向き合おうとすることだ。

そこに時間をかけなくて良いわけがない。

時間をかけてゆっくりと話す。

的はずれな発言にも思いがあるかも知れない。うまく言葉にできないのかも知れない。自分の思い込みで間違った受け取り方をしてしまうかも知れない。

あらたまって対話をする時、いつもの予断に待ったをかけてゆっくりと考えてみる。

ここは今からそういう場です。

…のような口上は毎回あっていい。というか、毎回ないとよろしくないのではないかと思う。

毎回、参加者は違う。その時の心持ちも違う。今から他者と向き合う。自分とも向き合う。急がない。いろんな角度から見直す。

そういう時間を過ごすのにふさわしくなるように、場を整える。なんと難しいことか。

問いを立てる。

はてさて、その問いに答えようとすることは考えたことになるだろうか?

その問いが求めている答えはどういうものだろうか?

「私の価値観」や「私の感じたこと」を話すことは問いに答えることになるのだろうか?

今、なんの話をしているのだろうか?

対話の場になっているだろうか?

相反する意見も、他とは違う視点も、個人的なエピソードも、奇妙な価値観もある。

混雑した話題をつどつど整理しながら、今の話題に集中できるように導き、その先へと誘う。

そうして場が動き出したら、今度は余計な介入をしないようにじっと耳を傾ける。

考えてみればちっとも簡単ではない。

哲学カフェは増えた。哲学カフェ警察みたいなやつもいるし、自慢の知識をご披露して下さる人もいるし、色々だ。

対話の機会も増えた。対話会だけじゃなく学校や職場でも機会があったりする。

でも、そこで為される対話が深いかどうかは別の話だ。

「どうやって対話するか」

これはとても難しい。

そういうことを考え、悩み、もがきながら、継続的に開催するというのはまったく奇特なことだ。私にはできない。

いや、もう少し正確に言い直そう。

私には高いレベルの真摯さで場を作ることは、まだできない。実力が足りない。

そういう場に出会うと、小賢しい語彙など吹っ飛んでしまい、すごいとしか表現できない。