「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学対話のルールを鵜呑みにしないで考えること

東京大学教授の梶谷真司さんの本を読んで哲学対話をはじめた人は多いみたいだ。

だけど、この本をマニュアルとかバイブルのように思ってよく考えずに模倣したり、東大教授の本に書いてあるからこれが正しいんだと決めつけるのは違うんじゃないか…という話を書く。

〈考える〉というのは実はしがらみが多くて、自由に考えているつもりでも思うほど自由じゃなかったりする。同調圧力とか見栄とか信念とかは〈考える〉ことの自由さを減らすし、語彙が少ないとか一面しか知らないとかも〈考える〉ことの自由さを減らす。思いもしない観点で考えるなんてできないしね。

また、ひとりだけで考えていると偏ってしまったりミスに気づけなかったりする。他人は違うというのは頭でわかっているつもりでも、実体験がないと実感としてわからなかったりもする。まあそういう点で、みんなで一緒に考える場というのは色んな気づきを得られて〈考える〉にはとてもいい。健全だ。

この本は、そういう〈みんなで〉〈考える〉ということの良さや面白さを伝えるのに一役も二役も買ってると思う。また、ルールも難しくならないように考えられていると思う。ちょっと多めかなとは思うけど。

だからこそこの本をマニュアルやバイブルのように思う人がたくさんいるんだろうと思う。

でも、この本に書かれていることが〈絶対の正解〉ではないし、トラブルを未然に防げるわけでもないし、いらぬトラブルを引き起こしまくるものでもある。それがいまいち考えられてないんじゃないかと思う。

ルールがあるんだからルールに従えばいいって本当にそうだろうか?考えてみたんだろうか?

で、この本にケチをつけようってことではなくて、考えなしだとこんな問題(問いではなくてトラブルの方)があり得るよ?ってことを書こうと思った。

なんで思ったかって?

実際にいろんな問題の話を聞きまくりだからだ。哲学でも対話でもない部分で嫌な思いをするのって、変だと思うから。

ということで、梶谷さんの提示する8つのルールについて、実践する人は考えておいた方がいいんじゃないかなってことを書いてみる。

本は持ってるんだけど今読み返すのは面倒なのでやらない。このルールだけを見て、どんなことが考えられるかって話。

(1) 何を言ってもいい。

梶谷さんだけでなく様々な哲学対話の場でみかけるルールだ。理念はわかるんだけど、暴言・人格否定・セクハラ・脅迫・秘密の曝露・デマ・勧誘なんかもOKだと思う人はやっぱりいる。

この点について主催者が責任もって止めるのか、それとも参加者任せにするのか。

「どっちにすべき」というのは中々難しくて、規制するほど自由度は減る。もう、如実に減る。それでも、その場が荒れまくるよりましだと〈考える〉ことも、自由に考えるためには放任した方がいいと〈考える〉こともできる。

このルールによって起きる問題とその責任と対処をどう〈考える〉か?

(2) 人の言うことに対して否定的な態度をとらない。

こういう禁止系のルールの問題点は、じゃあどうしたらいいのかが示されていないことだ。

それを示したら示したで、「そうしなきゃいけない」という狭量な受け取りをする人が出てくるという難しさもあるんだけど。

否定的な態度をとらないというルールを守ろうとして逆のことをする人もいる。どんな意見でもうなずいて同意するとか褒め合うとか。もしもみんながそうしていたら「それは違うんじゃないか?」と思ってもそれを言う自由がなくなってしまうかも知れない。それってルールの趣旨と相反しないだろうか。

もちろん、頭ごなしに「それは違う!」なんてのが推奨されるわけもないので、否定的な態度は抑止した方がいいと私も思うけれど、だったら代わりにどうしたらいいかを例示できないと、迷った参加者は〈考えない方〉に進むかも知れない。

それじゃあ哲学対話にならないように思う。

(3) 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。

もちろん当然そうだと思う。話さなきゃいけないと強制されたら〈考える〉間もなく話すことになる。だけど、話したいけど話せない人も中にはいる。そういう人がいたとき、発言しなくてもいい場所だからと放っておくのがいつでも正解だろうか?

話したい。けど話せない。どう思われるかを考えると怖い。そういう人に、なんでも話していいんですよと水を向けるのは優しさだろうと思う。でも反対に、そうやって水を向けられると話しにくくなってしまう人だっている。いろいろ難しい。

だから観察も、おだやかな雰囲気づくりも必要かも知れない。

主催者が干渉するのは、不自然に和気あいあいな雰囲気を作ったり、自然発生的な対話に水を差すことになったりと、いろいろ問題があるって意見もある。

私に正解はわからない。

けれど主催者になるなら、自分はどういう場にしたいのかは、よく考えておいた方がいいと思う。

(4) お互いに問いかけるようにする。

これ、結構問題なんだ。

このルールは〈問いを作ろう〉じゃないんだよね。〈問いかける〉なんだ。それは相手を知ろうとすることでもある。

でも、相手の考えに興味関心を持たない問いかけって、相手を知ろうとすることになるだろうか?

また、問いがないと考えることができないということが本には書かれていて、それはそうだと私も思う。でも、問いさえすれば考えられるのか?というと、そうでもない。

新しい問い、新しい問いと続いていくと、ちっとも深めないまま問いかけ合戦になってしまうかも知れない。それは詰問だ。

立ち止まってじっくり考えてみたり、意見を出し合ったり、その一番言いたいところを確かめ合ったりと、そういうことをするために〈問いかける〉のであって、問いかければそれがすなわち哲学対話だという趣旨のルールではないと私は思う。

(5) 知識ではなく、自分の経験にそくして話す。

このルールは、借り物の知識や権威を根拠にせず、自分の体験や経験を根拠にしましょうという趣旨だと私は思っている。

でも「自分が体験したんだから事実だ」という確信が強いと、だから一般的にもそうだという思い込みにつながるかも知れない。

その人が経験したことは、他人にはありえないと思えるようなことでも簡単に否定はできない。だけど、みんなも同じだとも言えない。ましてやそれだけで原理だなんて言えない。

自分の経験にそくして話してもらったあと、それをどう捌くか。そこを考えておかないと、話を聞いただけになりかねない。

(6) 話がまとまらなくてもいい。

まとまらなくてもいいし、合意を作らなくてもいい。もちろんそうだ。でもそれは好き勝手に話したいことを話せばいいってことではない。

話の結論はまとまらなくてもいいけど、今同じことについて話してる感じを保ち続けないと、対話してる感じにはならないと思う。

(7) 意見が変わってもいい。

(8) 分からなくなってもいい。

このふたつのルールについては、変な問題を引き起こすとは思いにくい。

あえて言うなら、このルールがあることを忘れちゃう人がいるってことかな。

【まとめ】
私が言いたいのは、どんなに素晴らしいルールであっても、絶対視したり粗雑に扱ったりしたら、うまく機能してくれないってこと。

梶谷流だのなんだの好きにすればいいと思うけど、梶谷さんの権威におんぶに抱っこで批判せず、絶対視したり崇拝したりは違うんじゃないかなと思う次第。