「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

私の考える対話の場と参加姿勢

※以前に別のところに書いたものの転載です。

えーと、なんかモヤモヤするので思うところを書きます。

始めに明確にしておきますが、これは私がそう思っているというだけで、唯一絶対の正解だとか、一番素晴らしい考え方だとか、だから同じように考えろだとか、そんなバカバカしいことを主張する気はさらさらありません。どう受け取ろうが読み手の自由です。

1. 哲学カフェというのは何なのか

巷の哲学カフェにも様々な色合いがあって、これぞ哲学カフェというものがあるようで、そういったものは実際どこにも無いんじゃないかなと思います。あえて言うなら、主催者やファシリテータごとに哲学カフェの形がある。
もちろん基本線はあります。ゼミじゃないし、会議じゃないし、討論会でもない。「参加者が対等の立場で参加する、対話の場」であって、そこでの話題は哲学的なことだということ。
多くの哲学カフェではルールとして、特定の宗教や政治、団体活動への勧誘や、商売の話をすることが禁止されています。それは対話を目的としていない行為だし、だいたいがトラブルの原因になるからです。
でも、「宗教って必要なの?」とか「民主主義っていいの?悪いの?」と言ったテーマは、宗教や政治を題材にしていても哲学的だと受け取られます。これは、特定の宗教や政治思想に対して、正しいとか素晴らしいとか間違ってるとか悪いとか述べ合うということではなく、「人間や社会にとってどのような意味を持っているのかを問うているから哲学的なのだ」と私は考えています。
哲学カフェとはそのような哲学的な問いに対して、「参加者が対話を通して深めていく場」だと思っています。

2. 対話の場の目的

哲学カフェが対話の場である以上、異なる意見の参加者がいます。
その中で何を話すのか。何を目的に対話するのか。
正しさの勝負をするためではないし、知識をひけらかすためでもない。自己顕示欲を満足させるためでも、意見を評価したり優劣を付けたりするためでもない。みんなでまとまって何かの活動をするのでもない。
だって、正しさ勝負で勝ったらなんになるんでしょうか。知識をひけらかして、誰かにすごいと言われたらなんになるんでしょうか。そういったことを求めたければ、対話の場でないところで求めればいいことです。
そうではない。私は対話の場はまず何よりも、「他者の意見を聞いてみるための場」だと思うのです。そして、意見を聞いたその先は自分で進めればいい。だから意見をまとめて合意形成をしたり、何か結論らしきものを出したりする必要はないと思っています。
対話の場の目的をあえて私なりに言えば、哲学的な(あるいはそれ以外の)答えを見つけることではなく、自分とは違う意見に触れることによって刺激され、自分の価値観をよりよく更新する「きっかけ」を得ることが目的だと思っています。
さらに言えば、もっとも更新されるべき事柄は、テーマの問いに関する回答ではなく、他者の価値観に対する自分の態度であろうと思っています。

3. 意見を述べ合い、何を深めるのか

先ほど私は、「参加者が対話を通して深めていく場」と書きました。でも、参加者が思い思いに意見を述べ合うだけで深まっていくでしょうか。これは無理だと思います。述べ合うだけでは対話になっていません。
それが対話であるためには、他者への問いかけがなければならないです。そして聞き、受け止めること。それがあるからこそ刺激され、対話の場として機能して行くのだと思います。
問いかけることによって他者の視点や考えを掘り下げ、他者の視点や考えをより深く理解する。もしかしたら何か共通点が見つけられるかも知れない。もしかしたら相反する側面を見つけられるかも知れない。何かを深めるために必要なことは、「モノゴトの多様な側面を洗い出し、その対象の全体を多角的な視点で捉える」ことであって、対話の場は意見や価値観の優劣を競う場ではないはずです。
そして対話の場で深めるのは、何よりも【自分の価値観】であると思っています。

4. 自分と他者の価値観を大切にする

しかし、問いかけるだの深めるだの以前に、対話の場でとても大切なことがあります。それは自分の価値観と他者の価値観の両方を、同じように尊重するということです。
問いかけは、ともすれば否定や反論と受け取られることがあります。問いかける側はそうならないように配慮する必要がありますが、反面、問いかけられる側は問いかけに真摯に向き合わなければならないです。
仮に問いかけではなく否定や反論だったとして、だからなんでしょうか?
それで自分の価値観が脅かされるんでしょうか?
自分の価値観を変えなければいけないのでしょうか?
そんなことはありません。
「私はこう思う」のであれば、自信を持って「私はこう思う」と言えばいいのです。防御する必要も反撃する必要もない。他者に合わせて意見を変える必要もない。
またその逆に、もしもその問いかけによって「あ、そうか」と気づくことがあったなら、さっさと自分の意見を更新すればいいのです。意固地になって自説にこだわる必要はない。自分の価値観や意見は、自分に全権があるのですから、他者にどう言われようとそれを自分の糧にすればいいだけです。
他者の問いかけをきっかけにして自分の価値観を更新する。それが、私が対話の場に参加する目的であり、有益な場にするための不可欠な要素だと思っています。
私はこのような姿勢そのものが「自分の価値観を大切にすること」であり、同時に、「他者の価値観も大切にすること」であると考えています。他者の意見を自分への攻撃と考えず、考えるきっかけを提供してもらったと受け止めることで、互いの価値観を尊重することができるのだと思っています。

5. 私は何をし、何を望むのか

これが私の考え方であり、対話の場に限らずどこにおいても変わらない私の生き方です。
ですから、対話の場だからといって特別なことは何もしません。他者へ問いかける時に配慮はしますが遠慮はしません。仮に答えてもらえなくても、それで怒ることもありません。私が絶対に正しいのだという主張もしませんし、お前は間違っているとも言いません。褒めませんし、褒めてもらう必要もありません。
私は私の意見を言い、疑問に思ったら問いかけるだけです。参考にしたければするし、したくなければしない。私の勝手です。他者も同じように勝手にすればいいと思っています。
私が対話の場で他者に望むことがあるとすればひとつだけです。
それは自分の価値観と他者の価値観を、同じように尊重するという態度です。誰が正しいのでもなく、誰が優れているのでもなく、当人の価値観を決めるのは当人だけだということを、常に忘れないということです。

6. さいごに

最初にも書きましたが、これは私の考え方であり、他者に強制するものではないです。なぜこれを書いたのかというと、ひとつは、「私はこういう考え方で参加している」ということを表明しておけば説明が簡単だからです。もうひとつは、理想的な対話の場とはどういうものなのかを考えてみても、色々な意見があって理想形が見えにくいです。私のスタンスを明確にしておくことで、少なくとも私の考える理想形は見えると思ったからです。
他の参加者がどうであれ、私は私の考え方で生きているし、それを変えるも変えないも私の自由だと思っています。同じように、他の参加者も自分の考え方で生きていて、それを変えるも変えないもその人の自由だと思っています。
この考え方を前提に「理想的な対話とはどういう形になるか」を考えた結果、私はここに書いたように捉えるのが妥当だろうと思ったということです。