「自分はすべてを知ることはできない」という生き方
【自分はすべてを知ることはできない】という自覚は、案外難しいものだ。
哲学の効能は「考える力を養えること」と言われているようだけど、実は「答えは安易に出せるものではないと知ること」の方が大きい。
考える力なんて程度の差はあれだいたいの人は持っている。哲学を学べばそれが向上するとは限らない。知識があるから、弁が立つから、いかにも頭が良さげだから…しかし頑として持論を曲げない人もいる。
なるほど頭はいいかも知れない。でもそれを指して「あの人は哲学をしている」とは言い難い。
哲学をすることに限れば、他人の意見に耳を傾けるというのは、いい人になるためではない。違う視点、違う意見もあることを知り、自分の思考をより普遍的に通用するものに変えていくために必要だから耳を傾けるのだ。自分で反論や別の視点に気づけるならいいがそれが難しい。しかし他人は容赦がない。
他者から出てくる容赦ない反論や別の視点は、自分の中の臆見に気づくきっかけになる。ここで安易に「それは違う」とか「私の考えと同じだ」とか判断してしまうと小さなズレに気づくことができない。そうなれば自分の中の臆見にも気づかない。
反射的に応じれば【私は知っている】と思ったままだ。
反射的に応じてしまうのは、真理とは別のものを求めているからだ。
承認欲求だと言えばそうかも知れない。
論戦に勝つことかも知れない。
ともかく、「より普遍的な答え以外」を求めていることは間違いがない。
「より普遍的な答え」を求めず、【私は知っている】と思ったままでいたいのは安心したいからだろう。
しかし持論に安住することが哲学なのか?
そうではあるまい。
自分の弱さに気づき、それに抗って自分の思考を問い直す。
【私は知っている】と思っていたらそれはできない。
【自分はすべてを知ることはできない】という自覚は、自分を見つめなければ持てない。
これは知識ではない。
自覚であり諦念に近く、そして【習慣】だ。
「無知の知」の言葉だけを覚えて知ったふりをすることは、ただの思い上がりだ。哲学の概念を知ることが、哲学を学ぶことにはならない。
「無知の知」でも「不知の知」でも、他者の言葉を借りて「違うんだ」と得意げに語ったところで、哲学を知っていることにはならない。
自力で深めもせず、虎の威を借りているに過ぎない。
哲学をするというのは、哲学の概念や言葉を使うことではないのだ。もちろん読書でも対話でもない。
哲学をするというのは、【自分はすべてを知ることはできない】という自覚を持ちながら、それでも一歩ずつ真理ににじり寄ろうとする「生き方(在り方)」を指している。生き様に反映されない哲学など、哲学ではない。
「言葉だけの無知の知」は哲学から最も遠い。