「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

ある日の回想②

人間は真理と呼ばれるものに近づけるとは思う。一足飛びに近づけるとは思わないけど、近づくことはできるはずだ。しかしそれができるのは妥当な努力を積み重ねた者だけであって、追い求めてる風の気持ちやポーズだけでは一切近づけない。

哲学が好きだとか、自分の哲学だとか、そういうロマン的なことを語ることや、ちょっと違う視点を発見しただけでわかったつもりになることや、哲学対話に参加したり主催したりして深遠だの深い話ができただの対話っていいですねだの知的トレーニングになっただのと自己満足の言葉を並べることでもない。

まして「真面目ぶる」ことであるはずがない。

本当の問いに気づき、自ら深める。それは、いつどこででもできることだ。自宅だろうと、学校だろうと、対話会の場だろうと。

「問われたこと」に疑問も持たず答えるのは哲学じゃねえだろうよ。「問いの間違いに気づき、自ら問いを完成させて、落ち度なく完全に答えること」だろうよ。

自分のペースでいいんだ。亀の歩みで全然かまわない。妥当な努力を積み重ねるってのは面倒くさいしお手軽じゃないんだから。気が向いたときにやるだけだって全然かまわないと思う。

しかし、妥当な努力を積み重ねることもせずに、自分は能力が低いとか、なかなか勉強する時間が取れないとか、妥当な努力を積み重ねないことの言い訳に執心して、哲学をしていない自分を認めない姿勢では、真理はその影すら見せない。

妥当な努力をする。そして叩かれる。それ以外に今より一歩前進する方法なんか、ない。そのためにはまず「自分の問題」に向き合わなきゃならんだろうよ。