「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

自己犠牲はなぜいけないか

自己犠牲が「よいこと」だとすると、どうなるか

順に考えてみよう。

私は自己犠牲をする良い人間だ。
私は自己犠牲のために貧しくなったが良い人間だ。
私は自己犠牲のために貧しく、他人に経済支援をしてもらっているが良い人間だ。

あなたも私の自己犠牲を支援しなさい。
あなたも自己犠牲をして良い人間になりなさい。
自己犠牲の精神がない人は悪い人間です。

じぶんさえよければいいと言うのか。
世の中の困っている人は救われるべきだ。
みんなが自己犠牲の精神を持てば困っている人たちが◯人も救われるんだ。
しないのはおかしい!
非人間!

というような極端な思考につながる。

自己を犠牲にすることと、支援することは別のこと

自己犠牲とは、じぶんの利益を犠牲にするということで、一部そういう場面があっても否定はしない。しかしそれが年がら年中ではじぶんの生活が安定しなくなってしまう。弱者、貧民を救おうとして、じぶんが弱者、貧民になってしまえば、支援する側の負担が増える。

弱者、貧民を虐げない方法で、自身が支援する側として強力になる方がよっぽど役に立つ。さらに言えば、今の弱者、貧民たちが自立し、経済力を持ち、他の弱者、貧民を救えるようになる社会構造を作る方がもっと役に立つ。

自己犠牲を良しとする人は、じぶんが他者によく思われることを前提に考えている。目先のいい子ぶりっ子でご満悦になるのはそいつの勝手だが、それは結局誰も救わないばかりか、世の中を悪くする愚かな一手だ。

人生は当人が作るもの

自己を犠牲にするのは本末転倒だ。人間の人生は当人が作るものだ。であれば、モノをあげることで乞食を作るのではなく、自力で手に入れ自立する人間を作るのが本当の支援だ。

自己を犠牲にして私はエライと自己満足したいのだろうが、関わられる側にとっては迷惑だ。当人がやるべきことを代わりにやってあげるのは親切に見えるかも知れないが、実は当人から人生の機会を奪っている。

自己満足のために他人の人生の機会を奪うことが良いことであるはずがない。