「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

あなたの「やりたいこと」は本当に望んでいることですか?

「私には夢がある、やりたいことがある」という人がいる。
目指すものがあるのって、無いよりハリがあっていいよね。

だけどやりたいことの先に幸せがないことがわかっても、それにこだわり続ける人がいる。それがどんなにおかしいことか、気づけなくなっている。

「やりたいこと」というのは、他人から見てどうであれ、当人にとって幸せに繋がるからやりたいと思うのだ。その結果が、望んだ幸せが手に入らなかったとしても、そもそも幸せになるために望んだのは間違いない。

だから「やりたいこと」の目的を目一杯要約すると、「幸せになりたい」以外に答えがない。これはキチガイでさえ同じだろう。

でもそれを頑なに認めようとしない人がいるわけだよ。
なぜか。
それは幸せになるための手段が、いつの間にか目的になっているからだ。やりたいこと自体が幸せを感じるなら、そりゃあやめにくいわな。

でもね、そういうちょっとの幸せを望んでたのかな?
やりたいことをやれている時は幸せだけど、あとの時間は苦しみばかり。
そんなの望んでたのかな?

トータルでの幸せを望んでたんじゃないのかな?

「不幸の中のちょっとの幸せ」にしがみついて、「幸せな人生」を投げ捨てちゃっても納得できるなら、それはそれでもいいんだけどね。

夢を捨てろって言ってるんじゃないの。
根っこから見直してみたら、自分が本当は何を求めていたかわかるかもよ?
ってこと。
 


 
 

大切にするということ

本当に大切にしたいのであれば、大切にしたいものに順位を付けることだ。
大切にしたいと本当に思うのであれば意地でも順位を付けろ。

順位を付けず「ぜんぶ大切!」というのは確かに聞こえはいい。しかし実際には非常にテキトーであいまいで不誠実な態度だ。保留していると思ったら大間違い。実態は保留じゃなくて、そもそも重要と思ってないから「ぜんぶ大切!」なんて言えてしまうのだ。

「どうしても判断しなければいけない重要な事態になった時に判断すればいい」とでも思っているのだろう。しかし、いざ重要な事態になれば速やかに判断しなければならない。でもできない。即断できるものなら、そもそもやってるんだから。判断基準が明確で、決断力があるなら、とっくに判断・決断しているんだから。

もっと簡単に言おう。
「考えてない」んだ。

考えてもいないのに大切にしたいなんて嘘っぱちもいいとこだ。
納得できる判断には明確な理由がある。
だから判断ができるのであって、あいまいだったら何を選べばいいのかわかるはずがない。

次のケースを考えてみよう。

男女2人の子供を持っているとします。
あなたはどちらも同じように愛しています。順位を付けることはとても難しいです。

さて、あなたは、あなたの子供たちと一緒にいる時に大地震に遭遇しました。子供たちは今にも地割れに飲み込まれそうです。急いで助けたいですが、ひとりを助けている間にもうひとりは地割れに飲み込まれるかも知れません。確実に助けられるのはひとりだけです。

あなたはどうしますか?

  1. 息子を先に助ける。
  2. 娘を先に助ける。
  3. 年長の子を先に助ける。
  4. 年少の子を先に助ける。
  5. 自分になついている方を先に助ける。
  6. 自分になついていない方を先に助ける。
  7. 健康な方を先に助ける。
  8. 病弱な方を先に助ける。


「こんなこと考えても意味が無い」

なんてことはいくらでも言えるけど、ではもしも現実にこの状況になってしまった時どうするのだろうか? 傍観するのだろうか? 迅速に行動しなければ助けられるものも助けられなくなってしまうその時に、熟慮なんかしていられないだろう。体が自動的に反応するくらい考えておくから、自動的に反応するのだと思う。

判断や行動の基準がはっきりしないまま放置していて、いざその時に迅速に行動できないで、大切にしたという結果になるのだろうか?
私はそうは思わない。不測の事態が起きた時、優先順位に迷うようでは大切にしているとは言えないと思う。

どちらも選びたい。
どちらかを切り捨てるなんてできない。
そりゃあそうだ。
でも、選ばなければ全部失うなら、せめてどちらかを救いたいじゃないか。

だから考える。考えないで決めることなんかできない。考えても結論は出せないかも知れないけど、考えなければ絶対に結論は出ないんだ。そして考えたことによって、自分が何を基準にすればいいのか、何を基準にしなければいけないのか、それが見えてくる。

大切にするというのは、要るものを決めることではなく、要らないものを決めることだ。基準だって同じこと。要らない基準を片っ端から外していけば、自分にとって本当に必要な基準だけが残る。本当に必要なものだけになった時、ひとつ迷いが減る。

 

追記

自分にとって大切な基準でも、他人にとっては困る基準になることがある。
というか突き詰めれば誰かと利害が衝突するのが常だ。

人間は誰しも自分を優先させて生きるものだけど、建前的に「あなたのため」って言うことがある。でもそれってどこまで本当なんだろう。

私は、自分の幸せを追求すれば、どこかで必ず業を背負うものだと思っている。だって全部は選べないんだもの。いつか誰かの利害と衝突するんだもの。だからせめて、幸せを求める姿勢で妥協したくない。

「自分の幸せの追求が、誰かの迷惑になるという業」

これを自覚するからこそ、他人の業を許すことができるのだと思う。
 
   
 

回答例:幸せになる「見方」

人間にできるのは、「いかに幸せに生きて、満足して死ぬか」を考えることだけです。

さて、幸せになるためには、まず「身の回りの幸せ」に気づくことが必要です。その逆に、身の回りの幸せに気づかないと、他人の幸せを羨むようになります。こうなると大変苦しい。

自分の現状を「幸せではない」と評価することになるからです。

周りから見れば充分に恵まれていても、自己評価で「幸せではない」と思っている人は、誰がなんと言おうと「自分は幸せだ」とは思えません。なぜなら自分が幸せかどうかを決めているのは常に自分だからです。

裏を返せば、自分が幸せだと信じられれば、その人は幸せだとも言えるのです。ではどうすれば幸せだと感じられるのか。

幸せになるための本が世の中にたくさんありますが、共通して書かれているのは「感謝」についてです。幸せを感じるためには感謝する気持ちが必要だということです。

ただこれ、実はちょっと難しいのです。無闇に感謝してもいいんですが、それだと本質を勘違いしてしまいます。無闇にではなく、自分が素直に感謝できる点を探し、その点についてのみ感謝するということなのです。感謝できないことを無理に感謝することではありません。

具体的にどうすればいいのか。あなたには多分右手があるでしょう。そのことに感謝する。今、生きているでしょう。そのことに感謝する。そのためには、逆のことを具体的に考えます。

右手がなかったらどうなるのか。右手を縛ってみましょう。ものすごく不自由だということが実感できるはずです。

次は生きていることの逆...と言って死ぬわけにはいきませんから、「生きてるから味わえる良いこと」を想像してみましょう。楽しいこと、嬉しいこと。誰かと意気投合して楽しい。おいしいものを食べて嬉しい。そういう想像をすることで、それがひとつも味わえなくなると思ってみてください。生きていることに、少しは感謝できると思います。

年齢について考えてみましょう。

たとえば「もう40歳だ」と思うか、「まだ40歳だ」と思うかで大きく違います。よく耳にする言葉なので勘違いされてしまいそうですが、自分の価値を低く評価する理由なんてありません。40歳には40歳の魅力があり、20歳でその魅力を持つことは難しいのです。60歳にはまた別の魅力があるかも知れませんが、逆にもっと若さはなくなっているでしょう。「一番いい時」なんてものはありません。

大切なことは、「その時その時に持っている自分の魅力を発揮できるかどうか」なのです。
その自分の魅力を発揮する前に、自分を低く評価しては幸せになれる道理がありません。

貯金も同じです。
10万円の貯金を、10万円しかないと思えば不安になり不幸に感じます。10万円もあると思えば幸せに感じます。金額の大きさではなく、今の現実をどう評価するかによって受け取り方は変わってしまうのです。少ないと思えば、10万円あるのに有効に使うこともできず、ただ食いつぶしてしまうでしょう。
お金の価値を低く見れば、金額は同じでも価値の低いものになってしまうのです。

このようなことは、概ね「思考の癖」で決定されます。ですから、常に不満を持っている人は、どれだけ恵まれてもすぐに不満を感じる考え方をしてしまいます。「小さなことで満足し感謝する練習」をしてみることで、私の言っていることを実感できると思います。

一度きりの人生を、つまらない人生だと思うのも自分なら、素晴らしい人生だったと思うのも自分です。大変な不幸の渦中にある人でも、厳しい人生だけど大切な人に出会えて幸せだと思う人もいれば、自分は恵まれていないと不平不満でいっぱいになる人もいるし、周りの人を恨んで憎んで嫉妬して攻撃的になってしまう人もいます。あなたの人生はあなたが決めます。

もうひとつ。
「誰か」にとって真実でも、それが「自分」にとっての真実かはわかりません。「自分」が真実だと決めたものが真実です。もちろん誰かの言葉を真実だと受け入れてもいいですし、受け入れなくてもいいのです。意識して決めても決めなくても、「結果として決めているのは自分」です。

この「自分が決めていると自覚すること」が、幸せになるためにとても重要なのです。なぜなら、自分の幸せは誰かに決めてもらうものではなく、自分で決めることだからです。

あいつの責任、しょうがないこと、そう思えば自分の努力不足を責めないですみます。でも実は、たいていの場合に何かしら努力はできるのです。小さな努力、小さな成果かも知れません。でも積み重なると大きい。それを時間がかかるとか続けるのが大変だとか努力に意味が無いとかやるだけ損だとか、「自分」に言い訳をしてやらないのです。
やろうと決めるのも自分なら、やらないと決めるのも自分なのです。

そして、たいていの人が見ようとしていないことがあります。
努力して損することはありません。ちょっとの努力で宝くじのような成果を求める都合のいい考えをしているから損をした気になるのです。努力したら努力した分の成果はあります。ちょっとの努力ならちょっとの成果です。血のにじむ努力を続けた人には、それ相応に得るものがあります。
望んだものではないかも知れませんが、努力しなければ得られなかったものが必ず得られます。

すべて自分の責任だと心から思えれば、恵まれようと恵まれなかろうと、他人を恨み羨むことはなくなります。また、自分で決めたことに「都合のいい結果」を求めないという考え方も重要になります。

少しの努力で都合のいい成果を求めるのとまったく同じで、誰かに「してあげた」と思うとつい見返りを期待してしまいます。言葉に出さなくても、見返りがなければがっかりして、あいつはダメだと言いたくなります。このような考え方は Give & Take という間違った考え方が一般的で正しいと思われているためです。私は Give & Give が人間関係において正しいことだと思っています。

あげるだけでは損ではないか?と思うかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば私は無償で相談を受けています。端から見ればバカみたいなことです。でも、「考えるきっかけ」をいただいているとも考えられます。考えるきっかけをいただいて、自分の考えを整理しなおして伝えようと努力する。これは具体的なお題があるととてもやりやすい。すべて自分のためなのです。

Give はそれ自体が自分のためなんです。感謝も同じです。

自分が「幸せを見つけられる視点を持つ」ためにすることです。身の回りの小さな幸せに気づいて感謝し、自分の人生を自分だけの責任と考える。これは言い換えれば、「今までの人生はすべて自分の責任だった。その中でいいことも悪いこともあった。だけどいいことに感謝しよう。失敗は繰り返さないようにしよう。避けられない不幸を誰かの責任にすることはやめよう。そこからまた頑張ればいい。自分で自分を幸せにしよう。」という考え方なのです。

まとめてしまえば簡単なようですが、誰にでも長年積み重ねてきた思考の癖があります。その癖をいきなり全部直すことは大変に難しい。だから重要な点を書いて説明してみました。ひとつだけでも実践してみていただければ、自分の中で何かが変わると思います。

ひとつひとつの見方を「幸せになる見方」に直していってください。
あなたがあなたの人生を幸せなものと思えれば、必ず幸福感でいっぱいになれます。