「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

じぶんを大切にしているつもりで大切にしていない

私は悪くない(自己正当化、自己弁護)

じぶんの立場を補強・擁護する情報だけを採用し、じぶんの立場が悪くなる情報はシャットアウト。「いいよね?いいよね?」とか「悪いのはあっちだよね?」とか、じぶんの味方を求めることに躍起になり、「君にも悪いところはあったんじゃない?」という意見は無視か逆ギレで応じる。

このような態度はすべて自己正当化のために行われ、「じぶんはまったく悪くない」と信じられるまで続く。聡明な読者にはおわかりだろうが、もちろん信じきることは永遠にできない。なぜならまったく論理的ではなく、反対意見も潰しておらず、臭いものにフタをして見ないようにしているだけだからだ。じぶんに悪いところがあると自覚しているのだから、じぶんに嘘をつこうと無視しようと欺くことはできない。

ついでに言うと、これらの行動は他人には丸わかりなので非常に恥ずかしい。他人に丸わかりなことをわかっていないのは本人だけである。周りも含め、じぶんを観察していれば自覚できるが、観察したくないので永遠に自覚できない。

誰かのせいにする(責任転嫁)

自己正当化とも関係するが、何かの責任をじぶん以外に押し付けようとする態度。
じぶんが係ることの結果には、どんな理由を付けようとも責任の一端はじぶんにもあるのが普通だ。故意であっても、故意でなくても、何かしらの責任はある。それは自覚しやすい反省点なのだが、こんなことをしていれば反省しないだろう。反省の機会を自ら捨てているのだから、何も良くならない。モノゴトは悪い方へ確実に進む。

「あの人が悪い」という大前提の元に様々な論を述べる。同調してくれれば採用し、ちょっとでも否定されたり賛成しないと言われれば無視するか攻撃するかだ。じぶんを守りたいからとる行動だが、じぶんがそういう心理状態にあるということは、観察をしていないから自覚できない。

じぶんへのご褒美

じぶんへのご褒美でもなんでもいいけれど、これは「いけないと自覚していること」をするための言いわけとして使われている。ご褒美だから良い、例外だとすることで、じぶんへの言いわけにしているのだ。

そしてそのご褒美はなんのためのご褒美なのか。
「がんばった じぶんへの ごほうび」
だ。
たいていの場合やって当然のことに対して、「がんばってやった私はエライ、だからお菓子を買おう」というような使われ方をする。やって当然のことをやってもエラくはないが、誰かに褒められたいからじぶんで褒めよう、お菓子を買おう、私はエライ、エライから悪くない...ってことだ。

当然、じぶん自身がそんな言いわけに騙されるわけがないので、意識の中に罪悪感なり自己不信なりがたまっていく。

ご褒美などと言いわけせずに、欲しいから買った、やりたいからやった、じぶんはバカでダメ人間であると開き直る方が100倍ましである。

それをご褒美にしたいがために、その気もないのにこれ見よがしに親切にしたり、その時だけいい子になってみたりと、上辺を取り繕う行動をする。ハリボテを作って他人に見せ、それをもってじぶんへのご褒美と言う。出来の悪い喜劇のようだ。このような恥ずかしい振る舞いをしていても、じぶんを観察する気がないのでやはり自覚できない。

じぶんを観察し、そのままを認める

じぶんを観察し、よく理解する。これを行わずにじぶんを大切にすることは一切できない。
じぶんを大切にしているつもりだろうが、怠惰と無責任に逃げているだけだ。

上記の例はすべて、
本当はじぶんに責任があり(けど、責任から逃れたい、責められたくない)
本当はじぶんには改善できることがあり(けど、認めたくない、努力したくない)
本当はじぶんは困難を避けて安易な道に逃げている(だからご褒美で自己正当化)
ということだ。

これらはすべて自己欺瞞(じぶんを騙すこと、じぶんについた嘘)だ。*1
じぶんに嘘をつき続ける限り、じぶんを大切にしているとはまったく言えない。

実際にどんなクズ人間だろうとダメ人間だろうと、まず今のそのままを直視し、認めることだ。すぐに改善できなくても、認めさえすれば必ず改善できる。その一歩を踏み出さない限り、じぶんを大切にすることはまったくできない。まったくだ。

これは、0か1かだ。



 

 
 

*1:自己欺瞞 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/95721/m0u/ 『自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。』