「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

自分が本当に欲しいもの

人は「なに」で幸せを感じるのか。

お金があったら?
いい女(男)をモノにできたら?
頭がよかったら?
スポーツで勝てたら?

そうではない。それは表面の話。

人は「自分が欲しいと思うもの」を手に入れた時に幸せを感じるのだ。誰にどれだけ褒められようと、どれだけ異性からモテようと、欲しくないものをたくさん手に入れても、満たされないままだ。

自分が求めるものを手に入れることが重要。
ということは、自分が求めているものを知らないといけない。
しかし、それがよくわかってないという人が多い。

なぜか。

それは他人の価値観で生きてるからだ。
他人の価値観を優先していると自分の本当の望みを軽視してしまう。
そしてそのうち見えなくなる。

なので、他人の価値観は一度保留して考えることが必要だ。

人は殺していい。殺したければ。
盗んでもいい。盗みたければ。

考えに規制を設けない。
そうやって考えを進めて、自分がしたいこと、したくないことを考えていくと、殺して復讐されるのやだな。っつーか人殺しって言われるのやだなとか、自分がやらない理由ができてくる。
そうやって「社会のルールだから」という他人の価値観ではなく、「社会がどうだろうと自分が嫌だから」という自分の価値観になる。

自分の価値観で生きると、自分の欲しい物がはっきりわかるようになってくる。
すると「普通の人が共通して求めることがある」というのが見えてくる。
自分もそうだし、他人もそうなんだなあ...というのがわかってくる。

その中で最も重要なことが、「理解されたい」という欲求を自覚することだ。
他者と関わる以上、絶対に誰もが思うことだ。

しかし残念ながら、人は他人のことがわからないという現実がある。
テレパシーが無いんだから、そういう仕組みなんだと思うしか無い。
だとすれば、あとは会話するか観察するかして理解するしかない。

さて、ここで考えてみよう。

「おれのこと理解して欲しいから、おれのことをよく観察してくれよ」

というお願いは、通じるものだろうか?
どう思う?

虫のいい話しでしょう、これは。
相手には「あなたを理解してあげる動機」がない。自分の要求だけだ。

もうひとつ考えてみよう。今度はもっと具体的。


あなたのクラスで盗みがありました。
「犯人は誰だ?」「誰だよ!?」
みんなが騒ぎます。

状況からクラスの誰かの犯行なのは確実。そしてあなたが疑われはじめました。状況証拠だけで考えれば、あなたが犯人の可能性が一番高いです。誰が見ても。先生もあなたに「正直に言いなさい」と言ってきます。辛い状況だ。

その時、あなたのふたりの友達AとBが言いました。

A 「(あなたが)やったという証拠はないよ。決めつけるのはよそうよ」
B 「(あなたは)絶対にやっていない。なぜなら(あなたは)そういうことをしない人だから。私は知ってる。だから(あなたは)やってない。」


AとB、どちらの発言が嬉しいか?
Bに決まってるよね。Bのは信頼だから。
あなたを心から信頼している。

強い信頼は理解に基づいている。
だから理解してくれていると感じられる。

  • そういう友人がひとりだけいる。
  • そういう友人がひとりもいない。

この差がどれだけ大きいか。

全員が敵かも知れない場所で生きるのと、少なくとも味方がひとりいる場所で生きるのとでは、絶対的にいる方が安心できる。信頼できない世界で生きるのは、心が休まる瞬間がない。不安感でまったく寝られなくなるくらいに。

そこまで考えなくても、人は理解されたいんだ。
なぜなら人間は孤独だから。
他人のことがわからないから孤独。根本的に。

孤独が嫌だから他人の価値観に同調して、仲間を装う。
しかし同調が過ぎれば自分の生き方は通せなくなる。
それは根源的に不満感の原因となってしまう。
だから満たされることがない。

...という順序で考えてみれば「人は理解者を求めている」ってことがわかるだろう。

自分が求めているだけじゃなくて、他人も同じように求めてるわけだ。ここは共通している。その状況で「自分のことをわかってくれ」というのは、相手も同じように「こっちのこともわかってくれ」となっても不思議ではない。だけどお互いにわかって欲しいわかって欲しいと言い合ってたら、いったい誰がわかってくれるのか?

「自分をわかって欲しい」という気持ちがあることを自覚できたら、一度それを横に置こう。全面的に、相手のことを理解することだけに集中しよう。連鎖的にみんながみんなを理解...と、そううまくはいかないが、相手はわかってもらえて嬉しいだろうさ。でも、相手があなたと同じようにするとは限らない。あなただけががんばった分、損をするのかも知れない。しかしそれでいいのだ。

あなたが相手の理解者になったとしたら、相手は「君こそ自分の理解者だ」と思うだろう。あなたも自分が相手の理解者だと自覚するだろう。その一点について、お互いに共通の理解をしているよね?

そして理解された人は、理解してくれた人を信頼する。あなたは相手の信頼を得る。信頼するとその人のことをもっと知りたくなる。どの程度まで理解してくれるかは相手次第。でも信頼はされてるし、一部理解もされているわけだ。味方がひとり増えた。理想的な人間関係の作り方だ。

だけど相手は自分を理解しようとしてないのに、自分だけが相手を理解しようとするのは大変だ。誰もあなたにエネルギーをくれない。なのにあなたは注がなければならない。あなたに理解者がいてあなたに信頼や愛をくれるなら、あなたはがんばれると思う。でもそれがどこにもいない。それでもがんばれるのか?

徒労。
不毛。

そういう現状が続くかも知れない。こんなことやってても無駄じゃないか?と思うかも知れない。

愛がない。
誰も愛をくれない。
だから愛を与えるなんてできない。
誰かに愛を補給してもらわないとこれ以上頑張れない。

そういう風に思う時がもしもあったら、自分で自分に愛を与えるのだ。
自分がまず、自分の一番の理解者になる。それが最も強い根拠になる。
それは、絶対に裏切らない味方を、自分の内に持つことだからだ。