「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

意見を述べることについて

私は、「様々な批判に耐えてきた、あるいは今後も耐えられる、質実剛健な観点や解釈」を好む。

逆に私は、「単なる思いつきや決めつけ、独自色が強くて他人が納得しにくい意見」を好まない。これを別の言葉で表現すると、「偏見」だ。私は偏見という言葉が嫌いなのではなく、偏見と判断できるような底の浅い意見が嫌いだ。

自分の頭の中で妄想したいのであれば自分ひとりでやっていればいい。あるいは、その世界観でもって小説でもなんでも書いてみればいいだろう。でも、その世界観を一般(他者とのコミュニケーションの場)に持ち込むのであれば、一般の批判に耐えられる妥当な説明ができなきゃならない。それが厳密に正しいかどうかはさておき、多くの人数が賛同する見解でなければ少なくとも「一般的に」とは言えまい。

そして、多くの人が賛同する見解であるためには、多くの人が理解できる表現でなければならない。理解できなければ賛同する根拠が生まれない。また、理解できてもいないのに賛同するというのは、意見を出した人を無条件に信用するということであって、その意見に対して賛同しているとは言えない。多くの人が賛同するというのは、あくまで意見の妥当性を個々人が判断して、その意見が妥当であると認めることを指している。ここで問うているのは意見の質であり妥当性であって、「誰が言ったのかという点も重要だ」という話ではない。意見の質や妥当性を問わない立場があっても良いが、それは別の話だ。ごちゃ混ぜにしてはいけない。

意見を述べる時には、他者が理解でき、他者が意見の妥当性を認め、他者が賛同できるような説明・表現であることを目指す必要がある。その意見が「自分が考えた世界設定」という妄想でないのであれば。

しかしながら、いつでも意見を言う時にはそこまで全部考えて言わなければならない...となると、それはかなり難しい条件になってしまう。どれだけ努力しても配慮しても、完璧で、しかも誰にもわかりやすく言い切ることは難しい。いくつかはできるとしても、日常的にはほとんど不可能に近いだろう。

私が言いたいのは、くだらない意見を言うなということではない。
私が言いたいのは、「好き勝手な意見を言っててもいいが、誰にも何も言われないわけではない」ということだ。

これらを踏まえて別の表現にすると、「どのような意見であれ、意見を述べることは恥を晒すことそのもの」ということだ。ほとんどすべての人は、至らないことしか言えないのだ。恥なのだから、誰かに笑われることもあるだろう。侮られることもあるだろう。でも、それが普通なのだ。

その自覚を持って意見を述べるのが、最も妥当な姿勢だと思う。