「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「哲学に対する誤解」という問題

哲学には、社会的評価に関わる問題がある。
それは以下のような問題だ。

  1. 哲学は役に立たない
  2. 哲学はやらなくてもいい
  3. 哲学をやると気が狂う

これについて、ひとつひとつ述べて行く。

1. 哲学は役に立たない

この意見の背景には、哲学は一般的な生活の問題を考えるものではないという理解が、世間的な理解になっていることに起因すると思う。たとえば形而上学的な「真善美」を考えるとか、「存在するとは何か」とか、そういった【だから何?】的なことを何やら難しく考える学問ってイメージだ。たしかにそういうものだとすれば、役に立てる場面が思い浮かばないだろう。

しかし違う。
それは哲学に対する誤ったイメージだ。

哲学は本質を見るもの

誤ったイメージが持たれてしまう原因には色々あると思うけど、ともかく以下のようなことが哲学のイメージにはあって、これらが哲学に対するよろしくないイメージに貢献している。

  • 哲学の本はだいたい難しく書かれてる。
  • 哲学用語がさっぱりわからない。
  • 哲学の歴史を知らないと何が問題なのかわからない。
  • いちいち面倒くさい考え方をする。細かい。
  • そんなに小難しく考えたところで何の役に立つの?

で、実際のところは概ねこの通りで、小難しく面倒くさい考え方をして用語をたくさん作るのが哲学がやってることだ。

...なんだけど、それは無闇やたらと小難しくすることを目的にやっているのではない。そこが違うところだ。哲学は、細部を厳密に詰めながら、妥協せずに考え続けることを自分に強いているだけだ。だから一見すると、「面倒くさいことやってんな」と見える。

ちゃんと考えるってことはそもそも面倒くさいことだ。それでも、面倒くさいのを超えてちゃんと考えると、「ぱっと見はそうだと思えない本質」が見えてくるものなんだ。だからやる。そう、モノゴトの本質を見るためにやっているのだ。

本質を見る。
これが哲学をする目的であり、哲学が強力な思考手段として役に立つ理由だ。

...しかし、次に述べる問題によって、このこと自体が誤解されている。

哲学が役に立たないと思われる原因

もうひとつ、これは哲学に関わる人に原因がある。それは「哲学なんかやっちゃってるおれカッコイイ」という誤った認識だ。人によって異なるとは思うけど、哲学自体にはそういう魅力がある。なんか頭がいいっぽい感じがする。だけど哲学というのは「覚える学問」ではない。学ぶ学問でもない。考えることを、可能な限り真っ当に実行しようとする学問だ。

哲学をそういう風に勘違いしている人の多くは、哲学書を教科書のようなものだと思っているんじゃないだろうか。もちろん教科書のように読むことはできるけど、しかし哲学書は批判される対象だ。書かれていることは正しいと決まっていない。「本当に妥当なのか?」という視点で読まなきゃ、わからないものだ。

それなのに誰々はこう言ってるとか、何々という考えがあるとか、そういう引用をすれば何か「言えた感じ」になってしまい、結局そのものの本質は明らかにされない。あるいは、「私はこう思う」で止まってしまい、どうしてそう思うのかが明確に説明されない。それを「哲学している」と思っている人が多いように思う。

そうじゃない。

「●●だとしか思えない」という根拠を説得力を持って説明できなければ、何も言えてはいないのだ。それを追求することで、より正確な認識になる。

哲学は役に立つ

だからここで明確に断言する。哲学は役に立つ。なんの?
 
 人生のすべての瞬間において、
 人生に意味を持たせる。
 その役に立つ。
 

人生にはそもそも決まった意味など無い。しかし、だからこそ逆に、自分で好きなように意味を与えることができる。その意味をどうやって与えるのか、その方法こそが哲学なのだ。

様々な学問でも、ビジネスでも、単純作業でも、芸術でも、遊びでもだ。モノゴトを「面白い」と思うには、モノゴトを「こういうもの」と理解している前提が必要だ。つまりそれが、意味(認識)だ。意味の新しい側面に気づいたり、意味を別のことに活用できたりして、意味が更新される時に人は面白さ(世界の広がり)を感じるのだ。
また、世の中に蔓延する間違った考え方や、偏った考え方に気づき、迷いや、無用な罪悪感や、誤った使命感から解放されることの役にも立つ。総じて、自分の人生を明瞭で豊かなものに変えていくことができる。

哲学が役に立たないことがあるとすれば、それは哲学をしていない場合に限ってのことだ。

2. 哲学はやらなくてもいい

人間は生まれながらに哲学者だ。なんとかして世界を理解しようと努め、考える。だけど成長過程のどこかで「これはこういうもの」という手抜きをする。そうしてわからないことを、わかったことにして生きる方法を学習してしまうのだ。

どうしてもその手抜きができなかった人だけが、オトナになっても哲学者のままでいる。

世の中はヒステリーだらけ

「哲学はやらなくてもいい」というのは、その手抜きを肯定する人だけが言うことだ。もちろん、どこまでもどこまでも追求していけばキリがないというのは事実としてある。だからどこかで折り合いを付ける必要はある。

だけど、その折り合いの付け方を適当にしていると、人間はヒステリーを起こすようになる。人には様々な状況があり、その状況によって感じ方も考え方も変わるものだ。でも、ヒステリーを起こしている時、人はそんなことはまったく考えない。自分が神の代弁者であるかのように「私のルールに従わないのは間違っている!」と強く思うのだ。

しかし人は神の代弁者ではない。
すべての状況も、すべての境遇も、計り知ることはできない。
モノゴトの重みや優先度についても、万人が納得する説明をすることはできない。

それなのに、「お前は間違っている」と言いたくなってしまうのは、「自分がわかってないことを自覚していないから」だ。わかってないことを、わかったことにしてはいけないんだ。それがすべてのヒステリー(無思慮、無批判による不満や怒り)の原因であり、すべての混乱の原因だ。

「より妥当な認識があるのではないか?」

それを見つけようとする態度が、ヒステリーや混乱のない自由な思考に導く。この態度なくして、ヒステリーや混乱から逃れる術はない。そしてそれが哲学の基本的態度なのだ。

哲学をやらなければこの態度は身につかない。ヒステリーでモノゴトは解決しない。

哲学をやらなくてもいいという意見はつまり、ヒステリーを起こす人間になりなさいということだ。そんな意見が妥当なはずがない。バカバカしい。

3. 哲学をやると気が狂う

実際にこういうことがあったんだろうけど、あったとすればそれはたぶん、「論理的におかしいことを正しいと誤解して、自分の中の論理を曲げてしまうことで理解ができない状態になる」ために起きるんじゃないかと思う。

哲学書に書かれていること。
あるいは、哲学者を含む「偉い人」が言ったこと。
そして、世間的に正しいとされていること。

これらはたいていの場合、整合しない。全部を正しいとして考えようとしても、辻褄が合わないのだ。合うわきゃない。誰もが自分なりの解釈を述べているに過ぎなくて、どの意見も「ある一方から見た意見」でしかないのだ。それをごちゃ混ぜにしたところで、美しく整合した世界の見方なんか得られるわけがないのだ。

それを無理に整合させようとして論理的によくわからない状態になってしまう。そうすると、「正しさが明瞭でない状態」になってしまって、世界を認識するためのモノサシを失ってしまう。そうなると理解できる人生を生きることは難しくなる。

また、そこまで行かなくても、世界を悲観したりあまりの不明瞭さに絶望したり、そういうことでも人はきっと死ぬんだろう。

間違っている

だけどね、そういう考えになってしまうのは、「自分が考えていることは正しい」という極端に偏った認識があるからだ。もしかしたら、正しいかも知れない。天才かも知れない。でも、そうじゃないかも知れない。

極端なことを言えば、どの意見もある種の説得力を持つだろう。とんでもない意見でさえ、信じる人は信じるんだしね。しかし逆のことを言えば、どの意見も「絶対的に正しい」などとは言えないのだ。

様々な立場、状況、考え方、捉え方、分類の仕方、そういうものが組み合わさって、人間は世界をなんとかして認識しようとしている。でも、世界ってそもそもそういうものじゃない。人間は認識しようとしてがんばるけど、どうやったって「世界の本当の姿」を見ることはできない。なんたって、目と耳と鼻と口と皮膚で捉えるしかできないんだから。もしかしたら電波とか受信できる人がいるかも知れないけど、それにしたってすべての人間の心を理解するとか、宇宙のすべてを瞬間的に把握することなんかできない。

圧倒的に、わからないことの方が多い。そして、どうにもできない。

そういう中でどうにか生きていくために世界を認識しようとしているのだから、そもそも「快適に生きられりゃなんでもいい」というのが世界認識の根底にあるのだ。なのに、やれ「これが正しい」とか、「これが理想的だ」とか、そういう「わかりやすい型・パターン・レッテル」を作って世界を簡単に見ようとするやり方に慣れすぎてしまっているんだ。

そのやり方が悪いのではない。それしかできないんだから、良いも悪いもない。でも、この認識の仕方には明らかな弱点があるのだ。重要なことは、このやり方は世界のほとんどを切り落として単純化した見方だから、「切り落としたことが見えなくなってしまうやり方」だってことだ。そりゃそうだ、切り落としてるんだから。当たり前の話。

これはアナログとデジタルの関係と同じだ。デジタル化すればわかりやすいし扱いやすい。なんと言っても計算しやすくなる。でも本物はアナログの方で、デジタルではどんなにがんばっても本物とイコールにはならない。

言葉もルールも思想も、どうやっても本物にも完璧にもならない。

大切なことは、そこで絶望することではなくて、本物でも完璧でもないことを理解して、モノサシをうまく使うということだ。モノサシが不十分だったら、新しいモノサシに更新すればいいんだ。単純にそれだけ。

それを軽やかに、楽しんで行うこと。

世界の見えていなかった側面を見つけていくこと。

それが哲学するということだ。

そのように哲学していれば、気が狂ったりなんかするもんか。

まとめ

まとまらない(笑)
なので、気が向いた時に補完しようと思う。

以上!
 
 

意見を述べることについて

私は、「様々な批判に耐えてきた、あるいは今後も耐えられる、質実剛健な観点や解釈」を好む。

逆に私は、「単なる思いつきや決めつけ、独自色が強くて他人が納得しにくい意見」を好まない。これを別の言葉で表現すると、「偏見」だ。私は偏見という言葉が嫌いなのではなく、偏見と判断できるような底の浅い意見が嫌いだ。

自分の頭の中で妄想したいのであれば自分ひとりでやっていればいい。あるいは、その世界観でもって小説でもなんでも書いてみればいいだろう。でも、その世界観を一般(他者とのコミュニケーションの場)に持ち込むのであれば、一般の批判に耐えられる妥当な説明ができなきゃならない。それが厳密に正しいかどうかはさておき、多くの人数が賛同する見解でなければ少なくとも「一般的に」とは言えまい。

そして、多くの人が賛同する見解であるためには、多くの人が理解できる表現でなければならない。理解できなければ賛同する根拠が生まれない。また、理解できてもいないのに賛同するというのは、意見を出した人を無条件に信用するということであって、その意見に対して賛同しているとは言えない。多くの人が賛同するというのは、あくまで意見の妥当性を個々人が判断して、その意見が妥当であると認めることを指している。ここで問うているのは意見の質であり妥当性であって、「誰が言ったのかという点も重要だ」という話ではない。意見の質や妥当性を問わない立場があっても良いが、それは別の話だ。ごちゃ混ぜにしてはいけない。

意見を述べる時には、他者が理解でき、他者が意見の妥当性を認め、他者が賛同できるような説明・表現であることを目指す必要がある。その意見が「自分が考えた世界設定」という妄想でないのであれば。

しかしながら、いつでも意見を言う時にはそこまで全部考えて言わなければならない...となると、それはかなり難しい条件になってしまう。どれだけ努力しても配慮しても、完璧で、しかも誰にもわかりやすく言い切ることは難しい。いくつかはできるとしても、日常的にはほとんど不可能に近いだろう。

私が言いたいのは、くだらない意見を言うなということではない。
私が言いたいのは、「好き勝手な意見を言っててもいいが、誰にも何も言われないわけではない」ということだ。

これらを踏まえて別の表現にすると、「どのような意見であれ、意見を述べることは恥を晒すことそのもの」ということだ。ほとんどすべての人は、至らないことしか言えないのだ。恥なのだから、誰かに笑われることもあるだろう。侮られることもあるだろう。でも、それが普通なのだ。

その自覚を持って意見を述べるのが、最も妥当な姿勢だと思う。
 
 

信用創造の嘘

世界経済の軋轢は、信用創造というまやかしによって生まれている。
どういうことかというと、単純化して説明すると以下のようなことだ。

  • ごく狭い範囲内での信用創造はできるが、範囲外から見た場合に「総体の信用」に増減はない
  • 社会全体のコスト比率が変わったわけではない
  • 信用の増大に伴って、コストも増大するので比率は変わらない
  • コスト比率が変わっていないことが無視されるために、コストに見合った分配がされない状態になる
  • これによりコスト比率が低くなる場合と高くなる場合の両方が発生する
  • 利益配分が複雑化することで不均衡が生まれる
  • 不均衡を解決するために弱い立場への是正策が用いられる
  • グローバル化の推進によって後進国にしわ寄せが押し付けられる

信用創造の実態は、後進国からの搾取構造の複雑化だ。搾取という観点で考えるのは好きではないが、これは搾取そのものだろう。

それぞれの国内的には、マネタリーベース・マネーサプライの考え方によって自国の経済バランスを調整しているかのように見せかけてはいるが、実は「信憑性を壊さない程度で行われる経済力の捏造」に過ぎない。実態としては、生産力とコストパフォーマンスだけが価値創造の仕組みなのであり、その価値も最終的には「生産物のコストパフォーマンス」という尺度でのみ測られるべきものだ。

しかしそのコストパフォーマンス自体がやたら複雑なので、厳密にすべてを反映した数式を作ることはできない。生産コストだけではなく、貯蔵・流通コストや、健康に関するコスト、政治的あるいは風評的な影響、生み出せる利益や分配の構造などなど、全部を加味した上で判断しなければならない。現実的には不可能に近い。少なくとも近い将来に信憑性の高い指標が生まれることはないだろう。

よく言われるように、信用創造の仕組みは現代の錬金術だ。物理学のすべてが経済構造にも当てはまるわけではないが、この構造は物理学でいう保存則と一致しない。無から有は生み出せない。

たしかに新たな価値を想像することはできると思うが、それは「コストパフォーマンスの改善」ということとイコールだ。

コストパフォーマンスが改善されていなければ、本質的な価値は創造されていない。

この点を加味しない価値は、まやかしに過ぎない。