「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学的対話:「隠れた前提」を明らかにする

対話している中で、話している時の前提イメージが違うなと感じたら、現象学のエポケーを応用するのがいい。
エポケーというのは、「判断を保留する」ということ。

  同じ「目的」を共有できているか?

まずこれを確認する。そのために、「共有できている」という前提をいったん捨てるわけだ。

そしてもう一度、一分の狂いもないように細かく調整しながら、針の先と針の先を合わせるように、相手の前提を確かめていくことを心がける。別の言い方をすると、当面の目的を「相手の持つ隠れた前提を知る」ことに変更するということだ。

この隠れた前提は、相手も知らないんだ。だから、相手の説明は信用してはいけない。
これをすると、自分と相手の目的が、「相手の隠れた前提探し」に変わっていく。
なかなか変わらない場合もあるけど、相手が会話しようとするなら、いずれ変わる。
なぜなら、共同作業が進捗していくのは、たいていの人にとっては楽しいから。

確実な一歩を参加者全員で協力して見つけていく。これは説得ではないので、相手も「見つけた!」という快感を得られる。
そして、「みんなで見つけた」ということは、共通了解としてすでに成立しちゃってるから、そこを前提にした会話をしていくようにする。そうすると、ズレた瞬間にわかるようになる。

そうやってお互いに小さなズレに気づける状態を維持しながら会話をすると、足並みをそろえて進むために細かく調整しながら進む会話になりやすい。
素直な相手であるほど、「私は今こう思った」を伝えようとしてくるように変化する。
なぜなら、理解されることがとても嬉しいから。

丁寧に丁寧に、小さなズレも見逃さず、一緒の一歩を心がける。それは会話のズレをなくすためだけど、相手にとっては、「私のことを誠実に知ろうとしてくれる態度」に映る。だから協力的になる。人はわかってもらえると思うと協力的になるもんだ。

さて、でもどうやって?というのがわからないと思う。なので具体的な話をする。

人間は誰しも幸せになりたいと思ってる。まず、お互いの前に、この前提を仮に置くことにする。次に、前提が正しいとしたら、自分が幸せになるためには何が必要なのか?と考えてみる。金や愛情や自信や...そういうものに普通は目が行くけど、それを「本当に必要か?」という観点で全部潰していく。金があったら世界中から憎まれても幸せなのか?愛情があったら餓死しても幸せなのか?一番になれたら自信を持てなくても幸せなのか?

  • それがあっても幸せを感じられないこと
  • それがなくても幸せを感じられること

どちらかの可能性が少しでもあれば、それは「必ず」「要る」ではないから除外する。保留でもいい。とにかく「必要枠」から外す。そうすると、あれもこれも必要かもしれないと思ってたのに、結構ぼんやりしていることが見えてくる。

そうしたら今度は「全員に共通する」「誰にとっても」という観点を足して考えてみる。さっきまでは「(自分にとって)必要」という隠れた前提があった。それを隠さずに明確にするわけだ。探る対象を個別から全体に変えてみることで、共通項が見えてくる。これは面倒な条件だ。全員に当てはまらないことは全て除外されるわけだから、たいていのものが除外される。

この辺りで、「もしかしたら全員が幸せになりたいわけじゃないのかも」という可能性が出て来るかも知れない。でも、「人間は誰しも幸せになりたい」という前提を最初に仮置きしているからね、その範囲内で考えを進めてみよう。

さて、この時点での状態は、
 「人間は誰しも幸せになりたいのだとして、【誰にも共通する幸せに必要なもの】は あるの?/ないの?」
という状態だ。

「これは絶対に在る」と言えるものを見つけられれば、納得感を得られるだろうから、ここではまず「これは在るはず」というものを探して話を進めてみよう。

「全員に共通する条件はないんじゃない?」

「うーん、じゃあもっと小さなことまで広げて考えてみて、どうしても在るとは言えないって探し方をしてみよう」

「どうやって?」

「人によっては幸せを感じそうなものすべてを手に入れた人が、それでも幸せだと思えない場合に足りないのは何か?を考えてみよう」

「なんで?」

「個人によって違うとしても、全部持ってたら関係ないじゃん?」

「ああ、だから[全部持ってるのに幸せじゃないのは、実は全部じゃないから。で、それって何?]って考えるわけね」

「そうそう」

「全部持ってたら幸せなんだと思うけど」

「いやいやwwwその前提は捨てようよwww」

「え?」

「全部持ってても幸せじゃない時、何が隠れてる?って考えないと」

「あ、探せないわけか」

「そうそう」

「えーと、金はある。でも足りない。こういう時は持ってるけど幸せじゃないね」

「なるほど」

「足りないと思ったら、幸せじゃないってことなのかな」

「足るを知る、ね」

「いや、でも、世界中の金を独り占めしたら?それでも足りないってある?」

「なさそうだけど...あ、独り占めしてても、持ってないと思ってたら足りないね」

「ん?ああ、認識できてなければないのと同じってわけね」

「そうそう。自分は持ってる!足りてる!という認識があること、これが共通項じゃない?」

「持ってるとも足りてるとも思えなければ、たしかに幸せじゃないね」

「これだ」

「...何について?」

「え?」

「何について、持ってる足りてるなの?」

「えっと、つまり、金とか?そこは人それぞれじゃない?」

「人それぞれ禁止」

「(^_^;)」

「それじゃ探すのやめてるじゃん」

「んむー、持ってる足りてるという認識がある必要があって...」

「人それぞれだとしても、共通するものだよ」

「そうだよね、何が共通するんだろう...」

「あー、もうめんどくさいから、[人それぞれの自分の幸せに必要なもの]を理解して、それを持ってる足りてると思えるかどうか...じゃあダメ?」

「いいけど、[人それぞれに理解]だと思う」

「ん?あーそうか。じゃあ、人それぞれを取っちゃおう」

「うん、すると...」

「自分の幸せに必要なものを理解すること」

「それだね、それが必要だ」

「うん、これがないと、持ってたとしても足りてるって思えない」

「人それぞれに自分の幸せに必要なものがあるけど、[自分の幸せに必要なものを理解している]状態じゃいないと幸せを感じられないってことか」

「知ること、でもいいね」

「うん、その方が簡単になるか」

「じゃあ、[自分の幸せを知ること]が必要ってことだね」

...とまあ、こんな感じで考えていく。仮に答えを持っていたとしてもやる。
これが要するに、哲学的対話なのだと思う。

読み返してみればわかると思うけど、論証なんてプロセスはまったくない。論理式みたいな論証なんてなくていい。
勝ち負けを意識したら対話にならないし、哲学的な探求にもならないから。
 
 

共感について

一般に使われる「共感」という言葉には、二種類の意味があると思っている。

  1. ある意見や観点について、納得感を得たという意味で使われる共感
  2. 他者の感情について、同じように感じるという意味で使われる共感

私は、1.の共感については、主観的な意味が強く、他者の考えに拠らずに成立するものだと思うので、まったく異議がない。

しかし、2.の共感については、「他者の感情と同じ感情を持った」という意味になるので、まったく賛成できない。ただの幻想だと思っている。

他者がどんな感情を持ったのか、どうしてわかるのだろうか?
「私」がそう思っているだけで、他者の感情を誤解していないとどうして言えるのだろうか?
ここに私は、「私は他者の感情がわかるのだ」という傲慢さを感じるのだ。

「納得できる理由を推測することができる」というのであれば、疑う余地を含んだ推測なので違和感はない。しかし一般に使われる「共感する」という言葉の意味は、「疑いの余地がない確信」を前提として使われているように思う。

感情というのは原理的にプライベートなものであり、さらに本人であっても「その感情が意味する全部」を捉え切ることは難しいものであるのに、だ。

言葉で表現するために、大雑把に喜怒哀楽のように感情を区別してはいるが、実際の感情は「様々な性質が」「様々な強度で」複合的に発生するもので、一概に単語で表現しきれるものではなかったりする。

そんな複雑なモノを、しかも自分ではない他人のモノを、「わかる」と言うのは誠実ではない。

だから、他者の感情を直感的に理解したという意味で使われる「共感する」には、非常に違和感を感じ、信用できないものを感じる。
 
 

トロッコ問題で解くものは何か

ロッコ問題というものがある。
詳しくは以下のリンク先を読んでみて欲しい。私がここで説明するよりよっぽど詳しく書かれているから。


ロッコ問題は道徳の本質を考えるのに非常に適している。それがわかるのは、道徳の本質を取り違えている多くの人が、以下のような視点を持つことを見てとれるからだ。

 「何がよい選択か?」
 「命の価値とは?」
 「許される状況や基準とは?」
 「社会的正義とは?」

で、真剣に...つまり、間違えたら死ぬつもりで、真剣に考えてみれば、たいていの人は正解にたどり着けると思うんだが、どうも世の中には真剣に考えるということがさっぱりわかってない人だらけのようだ。

これはまた、「合理性の罠」でもある。

「合理の中には、そもそも人間が含まれていない」ということを、そろそろ自覚するべきなんだ。それが道徳の本質に直結しているってことがわかれば、トロッコ問題がなんの問題で、どう考えなきゃいけないかもわかるはずなんだけどなあ...。

ロッコ問題を真剣に考える場合、「社会的に正しい判断とは?」という視点よりも先に、「まず自分はどうしたい?」を考えることになる。真剣というのは、間違えた時に自分が致命傷を負うということだ。自分のことを考えないわけにはいかない。

そして、「自分がどうしたいのか」ということに、万人に共通するいわゆる【正解】なんかない。あるわけないのだ。

もし、万人に共通する正解があるのだとしたら、それに反するものは正しくないことになる。それはつまり、人間の自由を否定するものだ。

人間の自由を否定するということは、他の自由も否定され得ることになってしまい、最終的に【理想的な生き方・考え方以外を認めない】ということになってしまう。

これは人間を生きにくくする最悪の考え方だ。しかし現在、その考え方が普及してしまっている。

ある考え方が普及し一般化し「正しい」というレッテルが貼られるとどうなるのか。

それを考えてみれば、

「一面的に善に見えるものはすべて、やがて誰かを苦しめる原因になってしまう」ことがわかる。

はじめは一部の人を苦しめ、やがてすべての人苦しめ、別の社会問題を生み出していくことになる。

だから、万人に共通する正解はない。

一見「社会的に正しい」と思える結論も、巡り巡って「誰かを苦しめる」結果を生み出してしまうのだから、社会的に正しい結論は存在するように見えて、原理的に存在し得ない。

それは妄想だ。

ではその妄想は通常なんと呼ばれているのか。

正義と呼ばれ、
倫理と呼ばれ、
道徳と呼ばれている。

それらに共通しているのは、「誰にとっても正しい」という暗黙の強制だ。

この暗黙の強制の背景にあるものは何か。

それは、「誰にとっても正しいものがあるはず」という隠れた前提である。

換言すれば、これはイデアなのだ。しかしイデアなどない。

この世に発生するすべての様相は、「この世という立場」から見ればすべて「あるのが当然」のものだ。それを「人間の側から見ている」から、善し悪しがあるように見えているだけだ。

人間は、この世の様相の中で生まれたひとつの形に過ぎない。だから、この世の様相は人間のためにあるのではない。

善がすべての人間に共通する何かだとすれば、それは人間を超越するものということになるが、それはつまりこの世の様相そのもののことだ。それゆえに、「人間が妄想する善のイデア」というものはどこにも存在しない。

ロッコ問題を考える時、多くの場合はこのイデアを探して【あるはずの正解を見つけよう】とする。そこに罠がある。

正解なんかないのだ。
だから導き出された答えにどれほど納得感があっても、それは必ずどこかで破綻する。

正義や倫理や道徳も、これとまったく同じ問題を抱えている。

【正解があるはず】という臆見(思い込み)を排除した時に、今まで見えなかったものが見えるだろう。

しかし...

実はただ一つだけ、イデアではない「万人に共通する妥当な解」が存在する。それはカントの定言命法だ。

ただし、カントの定言命法は妥当解ではあるが、それを「義務である」としたところに看過できない問題がある。カントの言っていることをもっともだと思って「これは義務なのだ」と考えると、たちまちイデア的な問題を呼んでしまう。冷静に、冷静に、冷静に考えてみれば、「人間に課せられた義務ではない」ので義務とは切り離して考えなければならない。

定言命法」がどんなもので、何をどうすればトロッコ問題の答えを導けるのか...それは明言しない。明言しないが、絶対に外せない要素であることは保証する。

興味がある人はこのような観点も踏まえて考えてみて欲しい。きっとトロッコ問題の背景にある問題が見えてくると思う。