「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

回答例:占いやお告げに頼っても幸せになれない(Part2)

わんこ先生

私が書いたことは理想論ではないです。事実なんです。

そんなことできないとか、頑張らないととか、人によっていろいろなことを考えるようですが、どう思おうと事実は変わりません。私たちは、事実を知って、それを踏まえてうまく生きるしかできないのです。なにもしないでいいことが転がり込んでくる時もありますけど、確実じゃないのです。それよりは、確実な一歩を前進していた方が早く効果がありますよ。

また、幸せは成功とかお金とかで決定されるものではないです。
ああ幸せだなあと「自然に思えること」なんです。

そのためには、幸せに気づくことができなければならない。
だって気づけないと、自分が幸せだってわからないでしょう?
良い結果であれ、悪い結果であれ、あなたは学び取ることができ、成長することができます。大変貴重な機会を得た。それを幸せと思うか、不幸と思うか、なんです。

あなたが幸せかどうか。
それって誰が決めると思います?
もう、わかりますよね?

相談者

そうですね…転がりこんでくることばかり考えるんじゃなくて、事実と向き合わなければだめですね。
幸せって自分で感じること確かに少ないです。気づけてないだけで。
自分の幸せは自分で決めたいですね。占いとか誰かとかに決められるのは違いますね。

わんこ先生

おっと...
なるほど、まだ誤解があるみたいですね。

「幸せは自分で決めたい」の以前に、あなたが決めています。
今、自分で自分のことを幸せじゃないと思っているということが、決めているということです。

誰かと比べて優っているということが幸せなのではなく、もっとずっと小さなものです。
たとえばご飯がおいしいとか、うんこ出てすっきりとか、そういうものの積み重ねが、幸せなんです。

そういう積み重ねがないと、大金を手に入れても不安が先に出ます。大金で幸せになるような気がしますけど、そうではないです。

そもそも幸せだから、大金を手にしても幸せなんです。
不幸な人は、大金を手にしても不幸です。
失うことを恐れちゃうので。

わかりますかね?
「大金に頼った幸せ」って、自分だけで決めたものじゃないですよね?
大金があるから幸せ、大金がないから不幸。
それってどっちも自分だけで決めてないです。
大金の有る無しに依存してます。

そんなものが幸せだとしたら、幸せってとんでもなく儚いです。
あ、もちろん幸せを儚いものにしたければ、そのように生きてもいいです。それはあなたの自由です。あなたが決めればいい。

私は、幸せはとても強固で確実で、自分の実力でもっともっと手に入るものだと思っています。「私の幸せ」って、そういうものだと「私が決めました」。

相談者

なるほど、、
無意識のうちに自分で決めているのですね。幸せは自分の実力で手に入るという言葉、忘れないようにします。

自分なんかだめだどうせうまくいかない、って決めつけてる自分を変えたいです。

わんこ先生

大原則は、あなたにそのつもりがあろうと、なかろうと、あなたの人生を決めているのはあなただということです。他の誰でもないし運命でもないです。
そのように考えることは辛いこともありますが、自分の人生を自分でコントロールできない方が辛いことが多いと思います。

占いに頼るということを極端に言い換えると、
「うんこしたいけど、うんこしていいかどうか誰か決めて!」
ということです。
おかしいでしょ?

ふざけたたとえだと思うかも知れませんが、ずっとうんこしなかったら死んじゃいます。少なくとも健康を損ねます。それを他人に委ねているんです。

すごくおかしいことなんですよ。

「自分なんかダメだ」

これから離れるには、決めつけることを辞めるのではダメです。効果ないです。
決めつけないならどうしたらいいの?
ということになるので、また元に戻ります。

効果があるのは、「すること」を決めることです。

「自分なんかダメだ」という言葉を、
「自分なんかダメかも知れない。けどダメとは限らない。ダメかどうかやって確かめて見よう。」という言葉に変えてください。

確かめる。
これが大事。

結果は決まってないんですから、とりあえずやってみて、結果を確認する。そのためにやってみる。結果の良し悪しを目的にしないで、どんな結果になるか試すのです。

相談者

どっぷり占いにハマる前は結構自分から行動できる方でした。でもいつもうまくいかないので、なら自然と誰かに決めてもらえば…誰かに頼りたい…というように気持ちが動いったのかもしれません。

それでも昔からいつも、きっとだめなんだろう…と結果の良し悪しにしか目がいっていなかったです。結果は考えずに確かめるんだ。という気持ちを持って、行動することを大切にしていきたいです。頑張りたいです。

わんこ先生

いつもうまく行かないのは、1つでも確実なことを多く見つけて進まないからです。確実なことを探して、1つ、また1つと増やしていけば、望む結果に近づいていきます。そして言われてみるとバカみたいに当たり前のことですが、「確実じゃないことに期待してもだいたい無駄」なのです。

働けばお金がもらえるとか、何か食べれば空腹がおさまるとか、当たり前ですよね。それらは確実なことです。

迷惑をかけて謝らなかったら悪く言われるとか、相手にも都合があることをわかっていると伝えなければあいつは勝手だと思われたり、当たり前ですよね。これも確実なことです。

確実なことだけ対処していってください。実はそれだけで充分なんです。大きな幸せは手に入らないかも知れませんが、大きなトラブルもなくなります。

そして小さな幸せがたくさん手に入ります。
まずはそこからやってみてください。

相談者

そうですね…いつも自分の思いだけで突っ走っていました。まずは確実なことにひとつひとつ対処してみます!!

小さな幸せがたくさん手に入れば、私も嬉しいです。
変われるように頑張ります。

わんこ先生

あ、違う。
「変われるようにがんばる」のではないです。それだと、まだ変わってないでしょう?

「私は変わった。確実なことだけを気にして対処していこう。まずは...」と考えてください。

先に変わっちゃうのです。
で、変わったんだから変わった証拠として行動する。

ね?
これなら今すぐ変わるでしょう?

わからないことがあったら、よろしければまたご相談ください。では。

相談者

なるほど!!理解しました!!笑
ありがとうございました!

 

回答例:占いやお告げに頼っても幸せになれない(Part1)

相談者

はじめまして。
元々占いが好きでお遊び感覚で楽しんでいたのですが、最近自分でも辞めたいと思うのに依存してしまっています。自分は決して1人じゃないと分かってはいても、どうしても周りの人が幸せに見えて、ついていけなくて、自分なんて…と思ってしまいます。

わんこ先生

はじめまして。

占いの内容が絶対ではないと思いながら、でもなんとなく無根拠でもないような...と思って無視できない。占いの結果が悪ければ「やっぱり運が悪いんだ」と思い、占い結果が良ければ「良い結果は当たらない」と思い、どっちにしろ悪いことばかり気になってしまう。こんな自分に比べ、他人はみんな幸せに見えて羨ましい。

...という感じでしょうか?

相談者

まさにそのような感じです。

良い結果が出ても悪い結果が出ても、結局のところ実際がどうなったのかがよく分からないので、何度も何度も繰り返してしまいます。

周りの友人を誘うと、そうだね!遊ぼう!とはなるのですが、こっちから具体的なことを言わないといつも流れてしまうので、別に自分はいてもいなくても、どっちでもいいんだろうな〜と思ってしまいます。

わんこ先生

占いにはまる人には共通点があります。
不安に実力で立ち向かわないことです。

不安というのは未来が不透明だから抱くのですが、それを透明にするために、死ぬほど考えるとか、死ぬほど鍛えるとか、そういう努力をしない。

また、不安の根源は自分の弱さにありますが、その弱さを直視しない。

するとどうなるのか。

何をしたらいいのかわからなくなります。

人生は無数の選択の結果です。
今何を食べるかといった小さなことから、この人と結婚するかといった大きなことまで、なんでもかんでも選択です。その選択の結果がその人の人生です。

あなたの人生も同じで、あなたの選択の結果で今があります。

失敗、ありますよね?
後悔、しますよね?
正解がわかってたら...と思いますよね。

正解なんかありません。どんな選択をしようと結果は選べないのです。たまたま運が悪ければ、たとえ選択が良くても失敗するのです。

でもですね、
運が悪くなければ、選択が勝敗を分けます。当然ですよね。運を考えなければ、正しい選択を続けることで勝率はあがります。

だけど、たまたま運が悪いと勝率を信じられなくなります。3回連続で失敗しても、勝率の高い選択ならいずれ良い結果が巡ってきます。

さて、じゃあ本当に良い選択だったのか?

それはわからないです。
大切なことは、
「結果はどうあれ、良い選択をした」
と思えることです。
それで失敗したとしても、次こそ更に良い選択をしようと思える。選択ミスでも成功でも、それがあなたの実力です。

あなたが選び、あなたが結果を受ける。
それが自分の人生です。

なんですが、
占いや宗教にはまる人は、自分の人生を生きようとしていません。結果がわからないから、でも良い結果が欲しいから、自分で選択しないで占や神の教えに頼ります。

言い換えると、
「他人に選択してもらってる」
のです。

それ、自分の人生ですかね?


自分で決めて、自分で歩く。
良い結果も悪い結果も、すべて自分のもの。自分が歩いてきた道だから、次にどっちへ進むか自分で決められます。

でも、それをしてこなかった人は?
自分の進む道を、自分で選んでこなかった人はどうなると思いますか?

何をしたらいいかわからないので、なおさら不安になるんです。良い結果も悪い結果も自分のものだと思えないから、悪い結果に怯えるんです。

あなたの人生はあなただけの人生です。占いに頼ろうと自分で決めようと選択したのはあなたです。

自分の人生を、自分の選択で作っている自覚を持つと、結果を他人のせいにしなくなります。だって自分の選択の結果ですし。

「他人のせい」というのは、自分以外のことです。親や先生や友達や、学校や会社や国だったり、占や神様や本だったり、自分以外のすべてが他人です。

「絶対失敗したくない!」と思った時、どうすればいいのか?

死ぬほど考えて勝率の高い選択肢を探すんですよ。それしかない。良い結果でも悪い結果でも、それが今の実力なんだから仕方ないのです。

だけど占いに頼る人は自分で考える努力をしないわけです。だから実力も向上しない。いつまでも自信が持てない。

これは「良い結果だけを楽して手に入れたい」と思っているからなんですが、その結果として「自分の選択に自信が持てない人生」を手に入れます。当たり前ですよね、自分で選択した自覚がないんですから。

周囲の人が幸せに見えてしまうのは、彼らも自分の人生を歩んでいるからです。自分で選択している自覚を持って生きているかはわかりませんが、少なくともあなたにはそう見えます。あなたに自信がないから。

ざざっと書いてしまいましたが、いかがでしょうか?
ハズレていたらすみません。

相談者

占いに限らず、何かあったらすぐに友達に相談したりして、言われたらその通りだ!と思って実行していました。友達の意見通りにすれば、失敗しても私が悪いわけではない、と思いそこまで落ち込まないですむ!と思っていました。でも結局は悪い結果なら落ち込むし、いい結果でも自分で決めたことじゃないから、いまいち達成感もなく、この人がいないと決められない!と不安になっていく、という悪循環なのだと思いした。

失敗したくない、という気持ちが強すぎて誰かに頼っていたけど、いつもそのことをすぐ忘れてどうでもよくなってしまうのです。あんなに悩んでいたのにどうして私は、忘れてしまうのだろう、とわからなかったのですが、今回わんこ先生の話を聞いてなんとなくわかりました。自分で選択していないから、自分のことっていう意識が薄くて、そうなってしまうのかもしれないです。

周りの人から相談を受けたりもしますが、やっぱりみんな最後は自分で決断して、自分の人生を歩んでいるのだと思います。だから羨ましくなってしまうのですね、、。結構他の人が気になって仕方ないタイプなのです。

わんこ先生

あなたが誰かの意見を頼ろうと、自分一人で考えようと、結局はあなたしか決められないのです。決めた責任はあなたにしかありません。
すぐに決めて前に進むのもあなたの決定だし、
迷って迷って決められずに時がすぎるのもあなたの決定です。
それでどうなっても、あなたが決めた行動の結果なのです。
その行動の「根拠」っていろいろあります。
親に命令された、友達に忠告された、TVで言ってた、本に書いてあった、自分で考えた。
なんでもいいです。でもどんな根拠だろうとそれを有益な根拠と判断して行動した責任は、あなたにしかありません。

さて、あなたはどちらの生き方をしたいでしょうか?

 A. 他人の考えだけど、自分が責任を取る。
 B. 自分の考えなので、自分が責任を取る。

どっちがいいですか?

相談者

今までは完全にAでした。でもBがいいと今は思えます。

他人に何を言われても自分の意見を持っていたいし、それでだめでも、自分の責任だけど、頑張ったって思いたいです。

わんこ先生

はい、私もその方がいいと思います。

でもですね、
自分の責任だ、頑張った、というのはいいんですが、
結果が失敗だったとすれば反省しなければいけないです。

反省というのは自分を責めることではないです。
失敗した原因を細かく考え、思い返し、次の機会にどうしたらいいか考える。
頭の中で、もっとうまくやる方法をシミュレーションしてみる。
相手のいることであれば、相手の気持ちがどうだったのかを考える。
相手の気持がどうなればもっと良い結果になったかを考える。
どうすれば、そういう気持ちになってもらえるのかを考える。

そういうことです。
考えるんです。

頭の良し悪しも多少は関係しますけど、それよりは真剣に向き合っているかどうかが大きく関係します。

真剣に向き合う?何に?

問題に。
自分に。

 占いにはまる人には共通点があります。
 不安に実力で立ち向かわないことです。

実力とはなんでしょうか。
それは、今現在の考える力です。
目一杯考えても、普段考えていなければ頭は冴えません。
だからきっと良い結果を得られないでしょう。

そして反省します。
反省もうまくできません。
だって普段から考えていないから。

でも、下手でも時間かかっても、自分が納得できるまで反省してみる。
すると、「今まで見えなかったことが少し見える」ようになります。

この時、実力が少し上がります。
別の言い方をすれば「気づく」ということです。
考えないと気づけません。

そして多くのことに気づいたら、それがあなたの実力の背骨になっていきます。

そのためにとても重要なことがあります。

 良い結果を幸せと考えないこと。
 悪い結果を不幸と考えないこと。

これです。

良い結果を幸せ、悪い結果を不幸と思う背景には、
「実力とは無関係に運が転がり込んできたらいいなあ」
という気持ちがあります。

どっちも自分の実力の結果です。
幸せでも不幸でもありません。
「そういう結果になった」ということがわかっただけです。

もちろんそれで利益も不利益もあるでしょう。やりやすくなったり、やりにくくなったりもするでしょう。でもそれは自分が招いた結果なんです。運ではありません。

嘘です(笑)。
本当は運もあります。

でも、運を前提に考えてもコントロールすることはできないんです。
不安になる原因は、それが「自分でコントロールできないこと」だからです。運もコントロールできません。しかし実力ならコントロールできます。

実力で立ち向かっている時、不安でも実力の範囲内ではコントロールが可能ですから、「やりようがある」わけです。

やりようがない、どうしたらいいかわからない、そういう時を思い出してみてください。不安でしょう? それがモノゴトに実力で立ち向かっていない状態です。

最初からうまくはいかないと思います。でも諦めずに反省を繰り返して、頭のなかでやり直しをしてみて、うまく行かせる方法を自分なりに見つけて、実力をつけて行ってください。

確実に成長します。

あなたの足で立ち、
あなたの頭で考え、
あなたの人生を懸けて人に向き合ってください。
そしてたくさん恥をかいてください。自分の責任で。
それでいいのです。

良い結果も悪い結果も、あなただけの結果です。
反省のきっかけになり、実力の根拠になるものです。
あなたの人生を作る大切な要素です。
良い結果に浮かれたり、悪い結果に嘆くのではなく、結果から何を学び取るべきかを常に考えてください。

あなたを幸せにするのは、親や先生や友達ではないし、伴侶や我が子でもありません。まして占いや神様であるわけがない。
あなただけが、あなたを幸せにできるのです。

「自分の人生を、自分のものとして生きる。」
そうすれば、幸せになれます。

相談者

結果が失敗だった時、なんでこうなったの?という気持ちだけが強くて、確かに反省と言われるとしていなかったような気がします。。でも反省しないと何がだめだったのか理解しないし、次に繋がらないのですね。。

あといいことが転がりこんでこないかな〜とは本当によく思ってしまいます。だからこそ占いにハマっているのかもしれませんね。良くても悪くても結果から何を学ぶか、大事にしていく努力をしたいです。

ご相談してから、今までの自分を思い返してみて、いかに他人に頼りっぱなしだったなあと実感しました。なので小さなことでも、自分で決めた!そして結果を振り返る!ということを癖のようにしていきます。
今すぐには占いから抜け出せないけど、少しずつ自分のものとして人生を見ていきたいです。

「友達の定義」の解説

友達の定義についてネットではどんな意見があるのか探してみたが、迷っている人が質問していたり試行錯誤しているものが多かった。だから書いたんだけど。

そのネットでは概ね、「一緒にいて楽しい人」が友達であり、「心を許せる人」とか「理解してくれる人」などが親友という感じだった。親友は一緒にいて楽しいだけではダメで、信頼できる度合いで変わるということだ。

では、その「一緒にいて(自分が)楽しい人」が本当はこちらを嫌っていたらどうなんだろうか。それも友達と言えるのだろうか。

こちらの一方的な好意で迷惑をかけていて実は嫌われている、ということもあるだろう。それでも一緒にいて楽しければ友達なんだろうか?

以前に書いた友達の定義を読み返してみて、どうしてこういう結論になっているのかわかりにくいかな? と思えたので解説を書くことにした。
 
 

友達の定義

友達って誰かに認めてもらうもの?

友達について考えた時、私はこのように問いを立ててみた。
「友達であることを誰かに認めてもらう必要があるだろうか?」

うん、相手に認めてもらう必要はあるかも知れない。
こっちだけが一方的に友達だと思っていても、コミュニケーションできないもんな。
「私たち、友達だよね?」
と聞いて違うと言われたら、きっとたいていの人がショックを受けるだろうしね。

しかし、
この時、二つの態度を選ぶことができる。
それはつまり、

  • そうだったのか、友達じゃなかったのか
  • それでも私はあなたを友達だと思う

ということだ。

前者を選べば、友達ではなくなるだろうし、人によっては憎しみを持つかも知れない。
後者を選べば、相手がどう思うにせよ、自分は相手を友達として扱おうとするだろう。

でも、どちらも選べる。いつでも。
もちろん、「友達として扱う」の意味も人によって異なるから、仲が良い友達かどうかはまったく別問題だけどね。
 
 

友達ではないもの

たとえば「友達なんだからこれくらいしてくれて当然」という横柄な人がいる。私はこういう人を精神的乞食と呼んでいるが、別の表現をすると「取引」で考える人だ。

友達を、取引関係や上下関係だと思っている人はあまりいないだろうが、自覚なしにそう行動している人は結構いるように思う。友達ってのは対等な関係だろう。

もしも他者から何かをしてもらうことが当然であれば、自分も他者にしてあげるのが当然という対等な関係になるのが自然だが、取引で考える人は自分が得をすることを重視して考える。「他者は善意を示せ。でも自分はしなくていい。」とか、「あなたが百円に困った時に私は協力した。私が十万円に困った時に協力するのは当然。金額の差は関係ない。」などという自分に都合のいい勝手なルールを持ち出したりする。もちろん自分が損する時には理由を探して例外を作る。何であれ、自分だけが有利になる条件や理由を付けるのは対等の関係ではない。

これを「友達扱い」といえるのかと考えてみると、私にとってはそうではない。だけど、これを当然と考える人にとってはきっとそうなんだろう。彼らにとっての友達は「取引相手」だったり「便利な下僕」と言い換えることができる。

私はそうではない。
私は取引相手を友達とは呼ばないし、呼びたくない。
下僕として扱うこともしない。
だとしたらどうすべきか。
 
 

私にとって何が一番大切なのか

取引であれば、自分が利益を得られる相手かどうかで判断するだろう。
取引でないなら、自分の利益は判断基準にできない。
自分が損しようと得しようとどうでもいいはずだ。
友達は取引関係ではない。だから損得は基準にならない。

では、相手が自分に向ける思いや評価で判断すればいいのだろうか。
しかし、それでは望まない結果でも仕方ないことになる。
こちらは友達と思いたいが、相手は友達とは思っていない。だから友達ではない。そんな結果を期待する人はいないだろう。こちらが友達と思うなら、相手にも友達と思ってもらいたいはずだ。

もちろん結果として期待通りにならないことはある。その結果は結果として受け容れるしか無いが、だからといって相手の思い通りにこちらの考えを変える必要はない。友達だと思いたいのはこっちなんだから、相手がどう思ってたって関係ない。「友達同士」にならないだけだ。もしも「関係ない」と思えない人がいるとしたら、その人は友達から何かを得ようと考えている。だから「相手の気持ちは関係ない」と思えないのだ。それは取引の関係だ。
相手からの評価を友達の基準にすることは取引関係であって、友達ではない。だから相手からの評価は基準にならない。


さて、ちょっと目線を変えてみよう。

私にとって何が一番大切なのか。
私は何を大切にするべきなのか。

それはやはり「私の意思」だろう。
やりたいと思うことを何ひとつ実行しないで死ぬとしたら、それは牢獄と変わらない。金があろうと人に囲まれていようと、そこに「私の意思」がなければまったく無意味だ。欲しいものも買えず、付き合う人も選べない。そんな人生は楽しくない。私は、私の思うように生きることが幸せなのだ。

そうであれば、相手からの評価などそもそも関係ない。
私が友達になりたいと思った相手を友達として遇すればいい。相手からどう思われようと、どう扱われようと、自分が友達として遇したいと思った相手に、友達として接すればいい。この姿勢をもしも損得で考えるとしたら丸損である。相手から好かれなければダメージも大きい。でもそれでいい。損得に関わらず、自分の意志を尊重できているから。

ただし、「自分流の友達としての接し方は」こちらの勝手な思いでしかないので、相手が迷惑に感じる場合もあるだろう。相手に迷惑をかけることは目的ではないから、その場合は接し方を考え直さなければならない。どちらかと言えば、相手の意思を尊重して接することになる。

「相手からどう思われようと、どう扱われようと」とはいえ、迷惑な邪魔者扱いされることを望んでいるわけじゃない。仲良くなりたい理解し合いたいという意志があるからこそ、友達になりたいという願望が生まれるのだから、それを無視しては本末転倒だろう。自分の意志を曲げない範囲で、相手の要望を尊重することはもちろん重要だ。
 
 

相手からどう思われようと

相手に好かれたいという気持ちは誰にでもある。
よく思われたい、高く評価されたいと思うものだ。

人はそうしてくれる相手を好む。

だけどそれって、自分が得するからだよね。

自分を友達として扱ってくれる人が友達なわけだ。
でもちょっと待って。
もしも世界中の全員がそう思っていたら、友達はできるだろうか?
友達として扱ってもらうまでは友達じゃないわけで、じゃあ誰からそれを始めるんだろう?

誰かが「友達として扱う」ことを始めなければ、誰とも友達にはなれない。
待っていたんじゃ始まらない。
自分から踏み込んでいかなければ友達はできない。

「相手からどう思われるかわからない」なら、嫌われる可能性も好かれる可能性もあるってことだ。それを確かめるためには前に進んでみるしかない。

その時、自分の意思を尊重することと、相手の意思を尊重することの両方を忘れなければそれでいい。それしかできないし。それで嫌われるなら仕方ないじゃないか。
 
 

なんにせよ自分次第

自分で自分の意思を確認して、損得ひっくるめて友達として接するかどうか決めるわけだ。決めたらそのように接し続けるのだから、その覚悟をしてもよい相手かどうか見極めなければならない。

見極めて、覚悟ができたなら、自分から突っ込め。
痛いとか怖いとか全部無視。
自分が考えて決めたことは損しても気にしない。
覚悟が持てなくなるまで突き進めばいいのだ。

これをできるだけ簡潔に表現したのが、

  • 私が友達として振る舞い続けると覚悟できること
  • 相手が私のことをどう思うかで決めない

ということだ。
実は「損得で考えない」というのも付け加えようかと思ったが、何を損得と考えるかによって断言できないと思ったので含めなかった。友達に対して丸損する接し方は、私にとっての得だとも言えるからだ。

ま、その話は別の機会に。
 
 

親友の定義

友達と親友の違い

友達は自分が決めるとしたら、親友も自分が決めるんだろうか。
それはそうだ。その基準を変えるのはおかしい。
でも、だとしたら、その違いってどこにあるんだろう?

友達より親しい友達。
だから親友なんだとすれば、その親しさってなんだろう?
 
 

他人のことはわからない

テレパシーでもあるなら別だけど、基本的に他人のことはわからない。少なくとも自分とまったく同じということはない。どれだけ考え方が似ていようと、好みが似ていようと、必ず違いはある。

だから聞いてみる。観察してみる。どうしてそう考えるのか。何が基準になっているのか。
また、人間ってどういうものかも考える、勉強する。人間というのは奥深い。人間について知らないことの方が多いのだから。
そうやって積み重ねていくことで、相手を少し理解することができるようになる。理解することと認めることはイコールではないけど、理解することで「わからない」状態ではなくなる。

「なるほど、君はそう考えるんだね」
「あなたならそう言うだろうと思ってた」

これが積み重なったものが「その人らしさ」だ。
「その人らしさ」とは、喜怒哀楽と、生き方・考え方に表れる。だからそれをよく観察して知ればいい。
これを理解してくれている人とは話が早い。とんちんかんな気遣いではなく、意味のある気遣いができるようになる。気遣うかどうかは別として。

これがつまり、

  • 私の考え方生き方を、理解してくれてると私が感じること

ということだ。

長い付き合いでも理解してくれない人もいれば、出会ったその日に理解してくれる人もいる。ただそれは、好き嫌いとは別の話だ。よく理解できるからこそ嫌いということもある。だからもう一つの条件が必要になる。
 
 

私と誰かの人生は違う

私の人生が成功しようと失敗しようと、私の人生は私のものだ。助言や忠告はありがたいが、どうするか決めるのは私であり、それが私の責任だ。これは誰にも負えない。

私が鈍亀のようにゆっくりとしか進めなくとも、それが私なら仕方のないことだ。私が間違った選択をしようとしても、そこに意志があるならそれも仕方のないことだ。誰かにとっての愚かな選択が私には必要な選択かも知れない。それを見極めるのも私の責任だ。これも誰にも負えない。

別々の人間、別々の考え、別々の人生。
それが交わる時間がどれほどあるのか知れないけど、交わる時にお互いの責任に対して敬意を持てる人と持てない人がいる。

私の人生に価値がないと思う人がいても仕方がない。それはその人の自由だ。その人の人生であり、その人の責任でそう判断すればよい。
だけど私は、私の大切な人生に敬意を持って欲しいと思っている。

これがつまり、

  • 私の考え方生き方を、尊重してくれると私が信じられること

ということだ。

人間同士だ、利害がからむこともある。
その時にどう接してくるか。
そこに互いの人生を尊重する意志があること。それが条件。

しかしこれは自分で決めることができない。こちらを尊重するかどうかは相手が決めることだから。
 
 

まとめ

長々と書いてきたけど、これは私がそうしたいと思うことであり、同時にそうして欲しいと思うことでもある。

私は好かれようが嫌われようが友達と決めればそのように接する。
誰かと友達になりたければ、嫌われることを恐れずに友達として接すればいい。
その中で、「自分流の友達への接し方」を磨いていけばいいのだ。

観察し、なぜなのかを考え、相手への理解を深めていくことで、自分の中の何かが成長するだろう。相手の選択、相手の人生を尊重することも自然にできるようになるだろう。

友達は自ら動いて作るものだけど、親友は理解と尊重の深まりによって自然にそうなるものだ。

どちらにしても「私たち友達だよね?」と確認するものではない。
それは友達でも親友でもなく、相手からの評価に左右されている、ただの【不安な人間関係】だ。

友達とは、明確な意志で自分が決めるものだ。