わんこ先生のざれごと

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「友達の定義」の解説

友達の定義についてネットではどんな意見があるのか探してみたが、迷っている人が質問していたり試行錯誤しているものが多かった。だから書いたんだけど。

そのネットでは概ね、「一緒にいて楽しい人」が友達であり、「心を許せる人」とか「理解してくれる人」などが親友という感じだった。親友は一緒にいて楽しいだけではダメで、信頼できる度合いで変わるということだ。

では、その「一緒にいて(自分が)楽しい人」が本当はこちらを嫌っていたらどうなんだろうか。それも友達と言えるのだろうか。

こちらの一方的な好意で迷惑をかけていて実は嫌われている、ということもあるだろう。それでも一緒にいて楽しければ友達なんだろうか?

以前に書いた友達の定義を読み返してみて、どうしてこういう結論になっているのかわかりにくいかな? と思えたので解説を書くことにした。
 
 

友達の定義

友達って誰かに認めてもらうもの?

友達について考えた時、私はこのように問いを立ててみた。
「友達であることを誰かに認めてもらう必要があるだろうか?」

うん、相手に認めてもらう必要はあるかも知れない。
こっちだけが一方的に友達だと思っていても、コミュニケーションできないもんな。
「私たち、友達だよね?」
と聞いて違うと言われたら、きっとたいていの人がショックを受けるだろうしね。

しかし、
この時、二つの態度を選ぶことができる。
それはつまり、

  • そうだったのか、友達じゃなかったのか
  • それでも私はあなたを友達だと思う

ということだ。

前者を選べば、友達ではなくなるだろうし、人によっては憎しみを持つかも知れない。
後者を選べば、相手がどう思うにせよ、自分は相手を友達として扱おうとするだろう。

でも、どちらも選べる。いつでも。
もちろん、「友達として扱う」の意味も人によって異なるから、仲が良い友達かどうかはまったく別問題だけどね。
 
 

友達ではないもの

たとえば「友達なんだからこれくらいしてくれて当然」という横柄な人がいる。私はこういう人を精神的乞食と呼んでいるが、別の表現をすると「取引」で考える人だ。

友達を、取引関係や上下関係だと思っている人はあまりいないだろうが、自覚なしにそう行動している人は結構いるように思う。友達ってのは対等な関係だろう。

もしも他者から何かをしてもらうことが当然であれば、自分も他者にしてあげるのが当然という対等な関係になるのが自然だが、取引で考える人は自分が得をすることを重視して考える。「他者は善意を示せ。でも自分はしなくていい。」とか、「あなたが百円に困った時に私は協力した。私が十万円に困った時に協力するのは当然。金額の差は関係ない。」などという自分に都合のいい勝手なルールを持ち出したりする。もちろん自分が損する時には理由を探して例外を作る。何であれ、自分だけが有利になる条件や理由を付けるのは対等の関係ではない。

これを「友達扱い」といえるのかと考えてみると、私にとってはそうではない。だけど、これを当然と考える人にとってはきっとそうなんだろう。彼らにとっての友達は「取引相手」だったり「便利な下僕」と言い換えることができる。

私はそうではない。
私は取引相手を友達とは呼ばないし、呼びたくない。
下僕として扱うこともしない。
だとしたらどうすべきか。
 
 

私にとって何が一番大切なのか

取引であれば、自分が利益を得られる相手かどうかで判断するだろう。
取引でないなら、自分の利益は判断基準にできない。
自分が損しようと得しようとどうでもいいはずだ。
友達は取引関係ではない。だから損得は基準にならない。

では、相手が自分に向ける思いや評価で判断すればいいのだろうか。
しかし、それでは望まない結果でも仕方ないことになる。
こちらは友達と思いたいが、相手は友達とは思っていない。だから友達ではない。そんな結果を期待する人はいないだろう。こちらが友達と思うなら、相手にも友達と思ってもらいたいはずだ。

もちろん結果として期待通りにならないことはある。その結果は結果として受け容れるしか無いが、だからといって相手の思い通りにこちらの考えを変える必要はない。友達だと思いたいのはこっちなんだから、相手がどう思ってたって関係ない。「友達同士」にならないだけだ。もしも「関係ない」と思えない人がいるとしたら、その人は友達から何かを得ようと考えている。だから「相手の気持ちは関係ない」と思えないのだ。それは取引の関係だ。
相手からの評価を友達の基準にすることは取引関係であって、友達ではない。だから相手からの評価は基準にならない。


さて、ちょっと目線を変えてみよう。

私にとって何が一番大切なのか。
私は何を大切にするべきなのか。

それはやはり「私の意思」だろう。
やりたいと思うことを何ひとつ実行しないで死ぬとしたら、それは牢獄と変わらない。金があろうと人に囲まれていようと、そこに「私の意思」がなければまったく無意味だ。欲しいものも買えず、付き合う人も選べない。そんな人生は楽しくない。私は、私の思うように生きることが幸せなのだ。

そうであれば、相手からの評価などそもそも関係ない。
私が友達になりたいと思った相手を友達として遇すればいい。相手からどう思われようと、どう扱われようと、自分が友達として遇したいと思った相手に、友達として接すればいい。この姿勢をもしも損得で考えるとしたら丸損である。相手から好かれなければダメージも大きい。でもそれでいい。損得に関わらず、自分の意志を尊重できているから。

ただし、「自分流の友達としての接し方は」こちらの勝手な思いでしかないので、相手が迷惑に感じる場合もあるだろう。相手に迷惑をかけることは目的ではないから、その場合は接し方を考え直さなければならない。どちらかと言えば、相手の意思を尊重して接することになる。

「相手からどう思われようと、どう扱われようと」とはいえ、迷惑な邪魔者扱いされることを望んでいるわけじゃない。仲良くなりたい理解し合いたいという意志があるからこそ、友達になりたいという願望が生まれるのだから、それを無視しては本末転倒だろう。自分の意志を曲げない範囲で、相手の要望を尊重することはもちろん重要だ。
 
 

相手からどう思われようと

相手に好かれたいという気持ちは誰にでもある。
よく思われたい、高く評価されたいと思うものだ。

人はそうしてくれる相手を好む。

だけどそれって、自分が得するからだよね。

自分を友達として扱ってくれる人が友達なわけだ。
でもちょっと待って。
もしも世界中の全員がそう思っていたら、友達はできるだろうか?
友達として扱ってもらうまでは友達じゃないわけで、じゃあ誰からそれを始めるんだろう?

誰かが「友達として扱う」ことを始めなければ、誰とも友達にはなれない。
待っていたんじゃ始まらない。
自分から踏み込んでいかなければ友達はできない。

「相手からどう思われるかわからない」なら、嫌われる可能性も好かれる可能性もあるってことだ。それを確かめるためには前に進んでみるしかない。

その時、自分の意思を尊重することと、相手の意思を尊重することの両方を忘れなければそれでいい。それしかできないし。それで嫌われるなら仕方ないじゃないか。
 
 

なんにせよ自分次第

自分で自分の意思を確認して、損得ひっくるめて友達として接するかどうか決めるわけだ。決めたらそのように接し続けるのだから、その覚悟をしてもよい相手かどうか見極めなければならない。

見極めて、覚悟ができたなら、自分から突っ込め。
痛いとか怖いとか全部無視。
自分が考えて決めたことは損しても気にしない。
覚悟が持てなくなるまで突き進めばいいのだ。

これをできるだけ簡潔に表現したのが、

  • 私が友達として振る舞い続けると覚悟できること
  • 相手が私のことをどう思うかで決めない

ということだ。
実は「損得で考えない」というのも付け加えようかと思ったが、何を損得と考えるかによって断言できないと思ったので含めなかった。友達に対して丸損する接し方は、私にとっての得だとも言えるからだ。

ま、その話は別の機会に。
 
 

親友の定義

友達と親友の違い

友達は自分が決めるとしたら、親友も自分が決めるんだろうか。
それはそうだ。その基準を変えるのはおかしい。
でも、だとしたら、その違いってどこにあるんだろう?

友達より親しい友達。
だから親友なんだとすれば、その親しさってなんだろう?
 
 

他人のことはわからない

テレパシーでもあるなら別だけど、基本的に他人のことはわからない。少なくとも自分とまったく同じということはない。どれだけ考え方が似ていようと、好みが似ていようと、必ず違いはある。

だから聞いてみる。観察してみる。どうしてそう考えるのか。何が基準になっているのか。
また、人間ってどういうものかも考える、勉強する。人間というのは奥深い。人間について知らないことの方が多いのだから。
そうやって積み重ねていくことで、相手を少し理解することができるようになる。理解することと認めることはイコールではないけど、理解することで「わからない」状態ではなくなる。

「なるほど、君はそう考えるんだね」
「あなたならそう言うだろうと思ってた」

これが積み重なったものが「その人らしさ」だ。
「その人らしさ」とは、喜怒哀楽と、生き方・考え方に表れる。だからそれをよく観察して知ればいい。
これを理解してくれている人とは話が早い。とんちんかんな気遣いではなく、意味のある気遣いができるようになる。気遣うかどうかは別として。

これがつまり、

  • 私の考え方生き方を、理解してくれてると私が感じること

ということだ。

長い付き合いでも理解してくれない人もいれば、出会ったその日に理解してくれる人もいる。ただそれは、好き嫌いとは別の話だ。よく理解できるからこそ嫌いということもある。だからもう一つの条件が必要になる。
 
 

私と誰かの人生は違う

私の人生が成功しようと失敗しようと、私の人生は私のものだ。助言や忠告はありがたいが、どうするか決めるのは私であり、それが私の責任だ。これは誰にも負えない。

私が鈍亀のようにゆっくりとしか進めなくとも、それが私なら仕方のないことだ。私が間違った選択をしようとしても、そこに意志があるならそれも仕方のないことだ。誰かにとっての愚かな選択が私には必要な選択かも知れない。それを見極めるのも私の責任だ。これも誰にも負えない。

別々の人間、別々の考え、別々の人生。
それが交わる時間がどれほどあるのか知れないけど、交わる時にお互いの責任に対して敬意を持てる人と持てない人がいる。

私の人生に価値がないと思う人がいても仕方がない。それはその人の自由だ。その人の人生であり、その人の責任でそう判断すればよい。
だけど私は、私の大切な人生に敬意を持って欲しいと思っている。

これがつまり、

  • 私の考え方生き方を、尊重してくれると私が信じられること

ということだ。

人間同士だ、利害がからむこともある。
その時にどう接してくるか。
そこに互いの人生を尊重する意志があること。それが条件。

しかしこれは自分で決めることができない。こちらを尊重するかどうかは相手が決めることだから。
 
 

まとめ

長々と書いてきたけど、これは私がそうしたいと思うことであり、同時にそうして欲しいと思うことでもある。

私は好かれようが嫌われようが友達と決めればそのように接する。
誰かと友達になりたければ、嫌われることを恐れずに友達として接すればいい。
その中で、「自分流の友達への接し方」を磨いていけばいいのだ。

観察し、なぜなのかを考え、相手への理解を深めていくことで、自分の中の何かが成長するだろう。相手の選択、相手の人生を尊重することも自然にできるようになるだろう。

友達は自ら動いて作るものだけど、親友は理解と尊重の深まりによって自然にそうなるものだ。

どちらにしても「私たち友達だよね?」と確認するものではない。
それは友達でも親友でもなく、相手からの評価に左右されている、ただの【不安な人間関係】だ。

友達とは、明確な意志で自分が決めるものだ。