「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

信用創造の嘘

世界経済の軋轢は、信用創造というまやかしによって生まれている。
どういうことかというと、単純化して説明すると以下のようなことだ。

  • ごく狭い範囲内での信用創造はできるが、範囲外から見た場合に「総体の信用」に増減はない
  • 社会全体のコスト比率が変わったわけではない
  • 信用の増大に伴って、コストも増大するので比率は変わらない
  • コスト比率が変わっていないことが無視されるために、コストに見合った分配がされない状態になる
  • これによりコスト比率が低くなる場合と高くなる場合の両方が発生する
  • 利益配分が複雑化することで不均衡が生まれる
  • 不均衡を解決するために弱い立場への是正策が用いられる
  • グローバル化の推進によって後進国にしわ寄せが押し付けられる

信用創造の実態は、後進国からの搾取構造の複雑化だ。搾取という観点で考えるのは好きではないが、これは搾取そのものだろう。

それぞれの国内的には、マネタリーベース・マネーサプライの考え方によって自国の経済バランスを調整しているかのように見せかけてはいるが、実は「信憑性を壊さない程度で行われる経済力の捏造」に過ぎない。実態としては、生産力とコストパフォーマンスだけが価値創造の仕組みなのであり、その価値も最終的には「生産物のコストパフォーマンス」という尺度でのみ測られるべきものだ。

しかしそのコストパフォーマンス自体がやたら複雑なので、厳密にすべてを反映した数式を作ることはできない。生産コストだけではなく、貯蔵・流通コストや、健康に関するコスト、政治的あるいは風評的な影響、生み出せる利益や分配の構造などなど、全部を加味した上で判断しなければならない。現実的には不可能に近い。少なくとも近い将来に信憑性の高い指標が生まれることはないだろう。

よく言われるように、信用創造の仕組みは現代の錬金術だ。物理学のすべてが経済構造にも当てはまるわけではないが、この構造は物理学でいう保存則と一致しない。無から有は生み出せない。

たしかに新たな価値を想像することはできると思うが、それは「コストパフォーマンスの改善」ということとイコールだ。

コストパフォーマンスが改善されていなければ、本質的な価値は創造されていない。

この点を加味しない価値は、まやかしに過ぎない。
 
 

哲学的対話:「隠れた前提」を明らかにする

対話している中で、話している時の前提イメージが違うなと感じたら、現象学のエポケーを応用するのがいい。
エポケーというのは、「判断を保留する」ということ。

  同じ「目的」を共有できているか?

まずこれを確認する。そのために、「共有できている」という前提をいったん捨てるわけだ。

そしてもう一度、一分の狂いもないように細かく調整しながら、針の先と針の先を合わせるように、相手の前提を確かめていくことを心がける。別の言い方をすると、当面の目的を「相手の持つ隠れた前提を知る」ことに変更するということだ。

この隠れた前提は、相手も知らないんだ。だから、相手の説明は信用してはいけない。
これをすると、自分と相手の目的が、「相手の隠れた前提探し」に変わっていく。
なかなか変わらない場合もあるけど、相手が会話しようとするなら、いずれ変わる。
なぜなら、共同作業が進捗していくのは、たいていの人にとっては楽しいから。

確実な一歩を参加者全員で協力して見つけていく。これは説得ではないので、相手も「見つけた!」という快感を得られる。
そして、「みんなで見つけた」ということは、共通了解としてすでに成立しちゃってるから、そこを前提にした会話をしていくようにする。そうすると、ズレた瞬間にわかるようになる。

そうやってお互いに小さなズレに気づける状態を維持しながら会話をすると、足並みをそろえて進むために細かく調整しながら進む会話になりやすい。
素直な相手であるほど、「私は今こう思った」を伝えようとしてくるように変化する。
なぜなら、理解されることがとても嬉しいから。

丁寧に丁寧に、小さなズレも見逃さず、一緒の一歩を心がける。それは会話のズレをなくすためだけど、相手にとっては、「私のことを誠実に知ろうとしてくれる態度」に映る。だから協力的になる。人はわかってもらえると思うと協力的になるもんだ。

さて、でもどうやって?というのがわからないと思う。なので具体的な話をする。

人間は誰しも幸せになりたいと思ってる。まず、お互いの前に、この前提を仮に置くことにする。次に、前提が正しいとしたら、自分が幸せになるためには何が必要なのか?と考えてみる。金や愛情や自信や...そういうものに普通は目が行くけど、それを「本当に必要か?」という観点で全部潰していく。金があったら世界中から憎まれても幸せなのか?愛情があったら餓死しても幸せなのか?一番になれたら自信を持てなくても幸せなのか?

  • それがあっても幸せを感じられないこと
  • それがなくても幸せを感じられること

どちらかの可能性が少しでもあれば、それは「必ず」「要る」ではないから除外する。保留でもいい。とにかく「必要枠」から外す。そうすると、あれもこれも必要かもしれないと思ってたのに、結構ぼんやりしていることが見えてくる。

そうしたら今度は「全員に共通する」「誰にとっても」という観点を足して考えてみる。さっきまでは「(自分にとって)必要」という隠れた前提があった。それを隠さずに明確にするわけだ。探る対象を個別から全体に変えてみることで、共通項が見えてくる。これは面倒な条件だ。全員に当てはまらないことは全て除外されるわけだから、たいていのものが除外される。

この辺りで、「もしかしたら全員が幸せになりたいわけじゃないのかも」という可能性が出て来るかも知れない。でも、「人間は誰しも幸せになりたい」という前提を最初に仮置きしているからね、その範囲内で考えを進めてみよう。

さて、この時点での状態は、
 「人間は誰しも幸せになりたいのだとして、【誰にも共通する幸せに必要なもの】は あるの?/ないの?」
という状態だ。

「これは絶対に在る」と言えるものを見つけられれば、納得感を得られるだろうから、ここではまず「これは在るはず」というものを探して話を進めてみよう。

「全員に共通する条件はないんじゃない?」

「うーん、じゃあもっと小さなことまで広げて考えてみて、どうしても在るとは言えないって探し方をしてみよう」

「どうやって?」

「人によっては幸せを感じそうなものすべてを手に入れた人が、それでも幸せだと思えない場合に足りないのは何か?を考えてみよう」

「なんで?」

「個人によって違うとしても、全部持ってたら関係ないじゃん?」

「ああ、だから[全部持ってるのに幸せじゃないのは、実は全部じゃないから。で、それって何?]って考えるわけね」

「そうそう」

「全部持ってたら幸せなんだと思うけど」

「いやいやwwwその前提は捨てようよwww」

「え?」

「全部持ってても幸せじゃない時、何が隠れてる?って考えないと」

「あ、探せないわけか」

「そうそう」

「えーと、金はある。でも足りない。こういう時は持ってるけど幸せじゃないね」

「なるほど」

「足りないと思ったら、幸せじゃないってことなのかな」

「足るを知る、ね」

「いや、でも、世界中の金を独り占めしたら?それでも足りないってある?」

「なさそうだけど...あ、独り占めしてても、持ってないと思ってたら足りないね」

「ん?ああ、認識できてなければないのと同じってわけね」

「そうそう。自分は持ってる!足りてる!という認識があること、これが共通項じゃない?」

「持ってるとも足りてるとも思えなければ、たしかに幸せじゃないね」

「これだ」

「...何について?」

「え?」

「何について、持ってる足りてるなの?」

「えっと、つまり、金とか?そこは人それぞれじゃない?」

「人それぞれ禁止」

「(^_^;)」

「それじゃ探すのやめてるじゃん」

「んむー、持ってる足りてるという認識がある必要があって...」

「人それぞれだとしても、共通するものだよ」

「そうだよね、何が共通するんだろう...」

「あー、もうめんどくさいから、[人それぞれの自分の幸せに必要なもの]を理解して、それを持ってる足りてると思えるかどうか...じゃあダメ?」

「いいけど、[人それぞれに理解]だと思う」

「ん?あーそうか。じゃあ、人それぞれを取っちゃおう」

「うん、すると...」

「自分の幸せに必要なものを理解すること」

「それだね、それが必要だ」

「うん、これがないと、持ってたとしても足りてるって思えない」

「人それぞれに自分の幸せに必要なものがあるけど、[自分の幸せに必要なものを理解している]状態じゃいないと幸せを感じられないってことか」

「知ること、でもいいね」

「うん、その方が簡単になるか」

「じゃあ、[自分の幸せを知ること]が必要ってことだね」

...とまあ、こんな感じで考えていく。仮に答えを持っていたとしてもやる。
これが要するに、哲学的対話なのだと思う。

読み返してみればわかると思うけど、論証なんてプロセスはまったくない。論理式みたいな論証なんてなくていい。
勝ち負けを意識したら対話にならないし、哲学的な探求にもならないから。
 
 

共感について

一般に使われる「共感」という言葉には、二種類の意味があると思っている。

  1. ある意見や観点について、納得感を得たという意味で使われる共感
  2. 他者の感情について、同じように感じるという意味で使われる共感

私は、1.の共感については、主観的な意味が強く、他者の考えに拠らずに成立するものだと思うので、まったく異議がない。

しかし、2.の共感については、「他者の感情と同じ感情を持った」という意味になるので、まったく賛成できない。ただの幻想だと思っている。

他者がどんな感情を持ったのか、どうしてわかるのだろうか?
「私」がそう思っているだけで、他者の感情を誤解していないとどうして言えるのだろうか?
ここに私は、「私は他者の感情がわかるのだ」という傲慢さを感じるのだ。

「納得できる理由を推測することができる」というのであれば、疑う余地を含んだ推測なので違和感はない。しかし一般に使われる「共感する」という言葉の意味は、「疑いの余地がない確信」を前提として使われているように思う。

感情というのは原理的にプライベートなものであり、さらに本人であっても「その感情が意味する全部」を捉え切ることは難しいものであるのに、だ。

言葉で表現するために、大雑把に喜怒哀楽のように感情を区別してはいるが、実際の感情は「様々な性質が」「様々な強度で」複合的に発生するもので、一概に単語で表現しきれるものではなかったりする。

そんな複雑なモノを、しかも自分ではない他人のモノを、「わかる」と言うのは誠実ではない。

だから、他者の感情を直感的に理解したという意味で使われる「共感する」には、非常に違和感を感じ、信用できないものを感じる。