「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

トロッコ問題で解くものは何か

ロッコ問題というものがある。
詳しくは以下のリンク先を読んでみて欲しい。私がここで説明するよりよっぽど詳しく書かれているから。


ロッコ問題は道徳の本質を考えるのに非常に適している。それがわかるのは、道徳の本質を取り違えている多くの人が、以下のような視点を持つことを見てとれるからだ。

 「何がよい選択か?」
 「命の価値とは?」
 「許される状況や基準とは?」
 「社会的正義とは?」

で、真剣に...つまり、間違えたら死ぬつもりで、真剣に考えてみれば、たいていの人は正解にたどり着けると思うんだが、どうも世の中には真剣に考えるということがさっぱりわかってない人だらけのようだ。

これはまた、「合理性の罠」でもある。

「合理の中には、そもそも人間が含まれていない」ということを、そろそろ自覚するべきなんだ。それが道徳の本質に直結しているってことがわかれば、トロッコ問題がなんの問題で、どう考えなきゃいけないかもわかるはずなんだけどなあ...。

ロッコ問題を真剣に考える場合、「社会的に正しい判断とは?」という視点よりも先に、「まず自分はどうしたい?」を考えることになる。真剣というのは、間違えた時に自分が致命傷を負うということだ。自分のことを考えないわけにはいかない。

そして、「自分がどうしたいのか」ということに、万人に共通するいわゆる【正解】なんかない。あるわけないのだ。

もし、万人に共通する正解があるのだとしたら、それに反するものは正しくないことになる。それはつまり、人間の自由を否定するものだ。

人間の自由を否定するということは、他の自由も否定され得ることになってしまい、最終的に【理想的な生き方・考え方以外を認めない】ということになってしまう。

これは人間を生きにくくする最悪の考え方だ。しかし現在、その考え方が普及してしまっている。

ある考え方が普及し一般化し「正しい」というレッテルが貼られるとどうなるのか。

それを考えてみれば、

「一面的に善に見えるものはすべて、やがて誰かを苦しめる原因になってしまう」ことがわかる。

はじめは一部の人を苦しめ、やがてすべての人苦しめ、別の社会問題を生み出していくことになる。

だから、万人に共通する正解はない。

一見「社会的に正しい」と思える結論も、巡り巡って「誰かを苦しめる」結果を生み出してしまうのだから、社会的に正しい結論は存在するように見えて、原理的に存在し得ない。

それは妄想だ。

ではその妄想は通常なんと呼ばれているのか。

正義と呼ばれ、
倫理と呼ばれ、
道徳と呼ばれている。

それらに共通しているのは、「誰にとっても正しい」という暗黙の強制だ。

この暗黙の強制の背景にあるものは何か。

それは、「誰にとっても正しいものがあるはず」という隠れた前提である。

換言すれば、これはイデアなのだ。しかしイデアなどない。

この世に発生するすべての様相は、「この世という立場」から見ればすべて「あるのが当然」のものだ。それを「人間の側から見ている」から、善し悪しがあるように見えているだけだ。

人間は、この世の様相の中で生まれたひとつの形に過ぎない。だから、この世の様相は人間のためにあるのではない。

善がすべての人間に共通する何かだとすれば、それは人間を超越するものということになるが、それはつまりこの世の様相そのもののことだ。それゆえに、「人間が妄想する善のイデア」というものはどこにも存在しない。

ロッコ問題を考える時、多くの場合はこのイデアを探して【あるはずの正解を見つけよう】とする。そこに罠がある。

正解なんかないのだ。
だから導き出された答えにどれほど納得感があっても、それは必ずどこかで破綻する。

正義や倫理や道徳も、これとまったく同じ問題を抱えている。

【正解があるはず】という臆見(思い込み)を排除した時に、今まで見えなかったものが見えるだろう。

しかし...

実はただ一つだけ、イデアではない「万人に共通する妥当な解」が存在する。それはカントの定言命法だ。

ただし、カントの定言命法は妥当解ではあるが、それを「義務である」としたところに看過できない問題がある。カントの言っていることをもっともだと思って「これは義務なのだ」と考えると、たちまちイデア的な問題を呼んでしまう。冷静に、冷静に、冷静に考えてみれば、「人間に課せられた義務ではない」ので義務とは切り離して考えなければならない。

定言命法」がどんなもので、何をどうすればトロッコ問題の答えを導けるのか...それは明言しない。明言しないが、絶対に外せない要素であることは保証する。

興味がある人はこのような観点も踏まえて考えてみて欲しい。きっとトロッコ問題の背景にある問題が見えてくると思う。

教養の価値について

「人生を豊かにする」というのは、「視点の豊かさを手に入れること」のように思う。
それは、経済性に囚われずに「モノゴトの多様性」に気づくことで得られる。その「多様性」は「教養」に深く関係している。*1*2
 
教養というのは楽しみにつながるものだ。教養が多ければ様々な楽しみ方に気付くことができるが、教養が少なければ楽しみの形が固定化してしまって閉塞感を感じるように思う。

教養が増えれば、たとえば歴史的建造物に付随する物語や時代ごとの意味を感じたり、ゲームの背景や定石から展開を予測する楽しみを感じたりできる。教養は多ければ多いほど、また、明瞭であればあるほど、明確な深さを持って楽しみを感じられるように思う。

考えてみると、楽しみとは多くの場合に「様々な多様性・可能性を感じる」ことで生まれているように思う。マンネリズムの楽しみというのもあるが、これも「次の展開が読める」という意味で、多様性のひとつを想起しているから楽しめるのではないだろうか。マンネリに飽きてしまうことがあるのは、多様性のひとつと思っていたものが、「実はひとつしかなかった(=多様ではない)」と気付くからだろう。

教養を別の言葉にすれば「過去の事物についての知見」であり、現在に当てはめてみることで多様性を認識しやすくなる効果があるのではないか。ひとつの事件・事象を見た時、過去の様々な事例や人間の振る舞いなどを想起することで、多様な未来を容易に想像することができる。

しかし教養が少なければ偏った一面的な未来しか想像できず、また、それに関わる多種多様な要因にも気付けない。そうなれば想像する未来像は固着し、多くの場合「短絡的な未来像」に囚われてしまうのではないだろうか。

このように、教養は現実認識に多様性をもたらすという重要な役割を持っているように思う。そしてそれは社会の豊かさを感じさせ、異文化コミュニケーションへの恐れや苛立ちを少なくし、イデオロギーや宗教の対立を和らげるのではないかと思う。

人間は「わからないこと」「悪い結果」を恐れて不安になる。そして不安によって攻撃性が増し、自分の意に沿うような結果になるように行動する。その行動の一番簡単なものは「喚くこと」で、いわゆるヒステリーだ。

しかしそのヒステリーも「わからないこと」が「わかること」に変わり、「悪い結果」が「悪い面ばかりではない」ことに気づけば雲散霧消する。「モノゴトの多様性に気付く」というのは、ヒステリーを起こさないための必須の要素だと思う。

教養とは、文学や絵画・音楽などの芸術、パズルや数学、歴史や言語学や哲学など、一見「実生活上の役には立たないもの」を指している。しかしそれは【経済性というモノサシ】で測っているからであり、【人生の楽しみというモノサシ】で測った時にはとても価値のあるものと感じられるだろう。もちろん世の中には通帳の残高を眺めることが楽しみという人もいるが、たいていはその残高を減らす何かの方に楽しみを見出すものだ。

教養はつまり、個人個人の世界観それ自体を経済性の呪縛から解き放ち、「人生に豊かさを感じさせるもの」だろう。

「豊かさのアンテナ」「豊かさの感覚器官」だと思ってもらえば、教養をもっとイメージしやすいかも知れない。

それは、多様な現実の認識と、多様な生き方の受容と、多様な未来の可能性の想起によって、より豊かな選択肢を見出す役にも立つものだと思う。

もちろん、知識があるだけでは教養とは呼べず、自分の世界観に組み込まれるまで身について初めて教養と呼べるものになると思う。そうでなければ使いこなすことはできない。

人生で出会う、絶対の正解がない問題に向き合った時、どうにか答えを見つけ出す道を探るための指針であり武器になるもの。

人間にとって、教養にはそういう価値があるように思う。 
 

*1:※ここで言う経済性とは、損した得したという観点を指している。あるいは、絶対的な正しさ(失敗したくない)という価値観を指す。

*2:※本文章は、多様性を【絶対的な良いもの】と前提していません。

性格とはなにか

もしも「性格はうまれつきのもの」「性格は変わらないもの」とするなら、そして「邪悪な性格」と判断される人がいるとするなら、その人はどれほど苦しんでもがいても、努力で性格を変えることはできないということになる。

他者から「邪悪」という評価を受け、当人も「自分は邪悪である」と認める時、邪悪で居続けることに納得できるのであればいいだろう。しかしもしも邪悪でいたくないとしたら...。性格がうまれつきで変わらないものであるなら、その人は自分を憎む以外に選択肢がなくなってしまうだろう。人間はそんなに救いのない生き物なのだろうか。

「表面ではない、根っこの(本質的な)性格」というものがあるとしたら、それに善し悪しはあるのだろうか?

活発に動き回るのが好きとか、静かに読書するのが好きとか、おそらくそういうものが人の本質と呼ばれるものだと思う。しかしそれは、性格というより個人の嗜好と呼んだ方がしっくりくる。「○○が好きな性格」という表現がされることもあるので、「嗜好も性格の一部」と受け取られる場合があるようだが、それは意味の混乱ではないかと思う。

また、勤勉であったり怠惰であったりすることも性格と受け取られるようだが、勤勉だった人が怠惰になったり、怠惰だった人が勤勉になることもある。これは単に行動パターンが変わったというだけではないか。つまり、性格と呼ばれているけれども、それらは単にパターン化された行動に名前を付けただけではないだろうか。

性格とは、性質・性癖・性向によって生まれる「やりやすい行動」が習慣化し、それに注目した他人が行動パターンに名前を付けて型にはめたものではないのか。

そう思う理由は、ある行動の傾向が目立って見えた時、そのパターンで捉えて「そういう性格の人」という判断をするけれど、見る人あるいは場合によって評価が変わり、「その人の違った一面」などと見られるからだ。性格が「その人の変わらぬ何かを表すもの」だとするなら、なぜ見る人や場合によって変わってしまうのか。

見る人、判断する人は、自分であったり他人であったりするけど、いずれにせよ「ある一面」を見て、そのような性格だというレッテルを貼っているに過ぎないのではないか。そしてレッテル貼りは、つまり決めつけることであり、「この人はこういう性格だ、そうに決まってる」という決めつけで生まれるのものではないかと思う。

さて、では誰が見て、誰が判断するのか。神が見て、神が判断している? いや、そうではあるまい。自分であり、他者であり、それぞれが思い思いにレッテルを貼っているだけのことだ。たまたま意見が一致すれば「やっぱりそうだ」という思いを強め、意見が一致しない場合には、「いやあ、私はそうは思わないなあ」などというのだ。結局、何か明確な基準や根拠が示されるわけでもなく、「自分はこう見る」という主張に過ぎない。

考えてみれば、ある一面やひとつの行動を捉えて、その人の全体を評価・説明するというのは、とても短絡的なことと言う他ない。まさにレッテル貼りだ。しかし、性格の話になると、人はそういうレッテル貼りを当たり前のこととして行っている。少なくとも私にはそう見える。
つまり性格とは、「当たり前を疑わない態度が生み出すレッテル貼り」だということだ。

性格は変えられる。
その気があれば誰でも、いつでも。


hokeypokey2012.hateblo.jp