「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

レッテル貼って、好きとか嫌いの理由にしてませんか?

人を好きになるとか信頼するとか、それは本当は何を見ているのか。
あなたが好きだと言いながら、自分の思い通りに動いてくれないことにいらいらするのはなぜなのか。

それは「その人」を好きってことなんだろうか?

「この人はきっとこういう人だ」とか、「この人と知り合いになると自慢できる」とか、「この人と友達だと困った時に頼れる」とか、その人を好きってこととは違う。その人の良いところ、好ましいと思えるところを見て「好き」と言い、その人の悪いところ、好ましくないところを見て「嫌い」と言う。

その時、何を見ているのか。

その人ではなく、「自分のモノサシで測った自分が思い描くその人」ではないか。
自分よりもよっぽど優れた人を、あまりにも稚拙なモノサシで切り捨ててはいないか。
自分と同程度だったり、劣る人、迎合する人を「いい人だ」と思い込んでいないか。

それは、その人を見てると言えるのか。
その人を見ずに言う、好きとか愛してますとか友達だとかに価値はあるのだろうか。

人間はすべてを知ることはできない。正解だけを選ぶこともできない。そして人は時間とともに変わっていく。レッテルを貼って切り捨てることも、レッテルを貼って友達になることも、その人を見ていないという点ではどちらも同じことではないのか。「この人はいい人」も「この人は悪い人」も、その人を見ずにレッテルを貼って分類している。その人を見ているようで一面しか見ていない。

私は人にレッテルを貼ることを愛とも友情とも思わない。
レッテル自体を友達とも思わない。

私にとっては、いい人だろうと悪い人だろうと関係ない。私がその人の幸せを素直に願い続けられると思えれば、その人がどんな人でも親しくなれる。何を喜び、何に怒り、何で哀しみ、何で楽しむのか。それを知り、同じ時代を友人として過ごしたいと思えたら、私はそれで幸せになれる。

私は、レッテルではなくその人をそのまま受け入れることが、親しさの具体的な形なんだと思う。
その人を受け入れ、その人を知ることが、親しいってことなんだと思う。

だから私が誰かと親しくなりたいと思った時は、2つの行動をする。

  • 私が【その人の喜怒哀楽や考え方や生き方や課題】を知ろうと努力する
  • その人に【私の喜怒哀楽や考え方や生き方や課題】を知ってもらおうと努力する

レッテルを貼らないし貼らせない。
素のままの私と相手。
親しくなるには、これが最も簡単で手っ取り早いと思う。

レッテル貼って簡単に判断したら楽だけど、それを続けていても親しくはなれないんじゃないのかな。