「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!

真理や叡智に至った人がいると仮定して、その人が日常的に真理も叡智も使っておらず、言行のすべてが私利私欲を満たそうとするものでしかなかった場合、その人が表現しているのは真理でも叡智でもなくて私利私欲だろう。

真理や叡智を日常的に使っている人(A)がいると仮定して、だけどそれを私利私欲だと見た人(B)がいる場合、BさんにとってはAさんの行動には真理や叡智を感じられない。

同様に、真理や叡智を日常的に使っていない人(非A)を見ても、それを私利私欲ではないと受け取る人(非B)がいる場合、非Bさんにとっては非Aさんの行動には真理や叡智が伴っているように見えるだろうか。検討する前に信じているんだから、そりゃ何かは見えるんだろうな。

では、真理や叡智を持っていない人が持っているふりをしている場合、他人には何が見えるのか。持っているふりでは実際に使えないのだから(非A)、使っている様を見ることはできない。使っていなくても「きっと持っているだろう」という臆見で判断する人(非B)にとってはたぶん持っているように見える。

真理や叡智を持っている・使っているに関わらず、見る側が持っていると思えば持っているように見えるし、見る側が持っていないと思えば持っていないように見える。見る側の主観によってしまう場合、客観的な判断は困難なように思う。

では、見る側の主観によらない方法でなら判断可能なのだろうか。

主観によらないのであれば、客観的な基準(モノサシ)が必要になるけど、普遍的で明確で客観的なモノサシって、ぱっと見どこにもないように思う。

サルトルという哲学者の言葉で「自分がすることを全員がしたらと問え」というのがあるけど、こうして問うた先にカントという哲学者の定言命法による「妥当」が見えてくるように思う。しかしそれもそこまで。自分の問いと答えにいかに妥当性があろうとも、それを【絶対的基準】に据えようとするのは独善になると思うのだ。

こういうことを考える時、私は「人間とは異なる嗜好を持つ宇宙人」を当てはめて考える。もしその宇宙人と共存するのだとすれば、嗜好が異なるので争いを完全に回避することは難しい。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?という視点で考えることにしている。宇宙人じゃなくても、人食い人種とかでもいい。食べられちゃたまらないけど、人を食べることが一番の幸せって人と共存しなきゃならないとしたら、どうすればいいのか。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?

共同体の中にルールは必要だから、完全ではなくともルールとして一旦定めてみるのはいいと思う。しかしそれを真理や叡智であるかのように「絶対視」することはとても危険だ。いかに妥当性を疑えないとしても【自分や自分たちだけに見える妥当性】かも知れないからだ。

別の名はもちろん【独善】だ。

まったく賛同できない時にそんなものを向けられたら、たいていの人は気分悪いだろうと思う。タイトルに書いたように「私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!」と思っている人はそれほど多くはないとは思う。だけど「正しさは判断可能なものだ」と思っている人はとても多いんじゃないかなと思う。

誰にでも当てはまる正しさなんて、判断可能なのだろうか?