『愛するということ』について(3) 責任を持つ
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の中にある〈愛の能動的4つの性質〉について、次は責任をみていこう。
くどいようだけど、〈愛の能動的4つの性質〉は原書で次のようになっている。
- 配慮 care
- 責任 responsibility
- 尊敬 respect
- 理解 knowledge ※新訳版では「知」と訳されている
そして、ひとつ前の記事の最後に書いたけど、配慮と責任には関係がある。それはどんな関係だろうか。
責任を持つ(responsibility)
日本人が持っている〈責任という言葉のイメージ〉を考えてみるとき、「よーし、責任持っちゃうぞ!」のような軽い使い方をイメージする人は多くないだろう。多くの場合、堅苦しく、やたらと重々しく、押し付けられるもののようなイメージとか、義務感や使命感のようなものをイメージしやすいように思う。また、切腹のような「自らを傷つけたり、自ら損をすること」というイメージを持っている人もいるように思う。
しかし、フロムの言う責任は、もちろんそういう意味ではない。フロムは次のように書いている。
今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
p.50(下線筆者)
まず、義務や押しつけではなく、完全に自発的な行為であると言っている。この点は日本に限らず、外国でも同じように誤解されがちということだろう。
〈完全に自発的〉ということは、社会や他者から強制されるようなものではないということだ。別の言い方をすれば、〈自分の勝手な意志でやること〉であるし、裏を返せば、やりたくなければやらない、持ちたくなければ持たないものということだ。
ここで誤解がありそうだが、フロムは義務を否定してはいない。義務は義務として考えるとして、それとは別に、愛には〈完全に自発的〉な責任というものが必要だよ、ということだ。義務を果たすことが愛の技術ではなく、責任を持つことが愛の技術だということだ。
次に、具体的にその責任〈responsibility〉とはどういうものか。英語はまったく得意ではないけど、語源を調べてみると、こんなことがわかる。
まず、responsibility とは、re + spons + ability に分割できる。
re は〈返す〉、spons は〈約束、保証〉、ability は〈能力〉を意味していて、レスポンス(response)は約束したこと(信義)を返すということから、返答や反応という意味になる。生返事ではなく、信義を守るための返答と捉えたらイメージしやすいだろう。また、求められていることに応える能力があるということは、それを実行できるということでもある。
これは能力がない場合を考えるとよりイメージしやすい。たとえば、目があっても視力(見る能力)がなければ見ることはできない。
つまりフロムの言う責任とは、義務や押しつけではなく、求めに応えようという自発的な意志と、それを可能にする能力を指している。これは〈実行できる能力を持った意志〉と言い換えられる。引用した部分は responsibility の意味するところそのままで、実行に必要な体力や知識や経済力を備えているということだ。「力なき正義は無力」のようなものだろう。
愛は気持ちのことだと勘違いされがちなので、具体的にその能力がない例をあげておこう。
- これから備えようと思う(今、備えはない)
- やる気はある(実行力はない)
- 愛情はある(愛する能力はない)
以上のようなものは、気持ちだけであってそれを実現する能力はない。つまり、なんとしても実現するのだという覚悟も方法論もないということだ。
中国古典に、轍鮒の急(てっぷのきゅう)という故事がある。
荘子が食に困り人に援助を求めると、近く年貢が入るからそうすれば大金を貸せると言われた。それに対して、自分がここへ来る途中、車輪の跡のくぼみにたまったわずかな水の中で苦しんでいる鮒に「そのうち長江の水で助けてやろう」と言ったら、「水が欲しいのは今だ」と鮒が怒ったという話を聞かせて憤慨したという。
今すぐ助けが必要なときに、気持ちはあるけど準備が整ってないというのは、つまりは助けられないということだ。今でなければならないときに「気持ちはある」などただの言い訳だ。
たとえば乳児の世話の仕方について勉強していなければ、十分に世話することはできない。よかれと思って独りよがりの考えで接すれば、とんでもないことをしてしまう恐れがある。
フロムの言う責任は、つまり〈今すぐ支援できる能力〉のことを指している。これは配慮とも関係していて、配慮を具体的に実行できる能力のことだ。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
これを私なりに意訳すると次のようになる。
「責任がある」ということは、頼りがいのある人間だ、という意味である。
〈care〉の日常的な日本語訳を〈責任を持って手入れする〉と考えたように、〈responsibility〉の日常的な日本語訳は〈頼りがい〉ではないかと思う。
責任のよりよい言い換えを考えてけっこうな時間がかかってしまったが、〈頼りがい〉という表現を見つけられたことに満足している。
この節の要点:
- 愛の本質のひとつは、〈相手にとって頼りがいのある人間でいる〉こと