親が作ったのは何か
子供にとって親が作ったのは何だろうか。
この肉体だろうか?
人間の生殖機能は様々な影響を受けるようで、健康な両親から健康な子供が生まれるとは限らない。保証されていない。
染色体異常や薬の影響、過度なストレス、アルコールや喫煙の習慣、その他もろもろ。充分に気をつけていたところで、五体満足で健康な子が生まれてくる保証はどこにもない。
その保証がなくても子供を作った。結果は運次第。しかしそれは「親が作った」のか?
親の意思は五体満足で健康な子だったろう。だがそれを望んでもその通りになるかどうかはわからない。生まれてきた子が五体満足で健康だったにせよ、何か問題を抱えていたにせよ、親がそのように作ったわけではない。親は子供を生むための手続きをしただけであり、結果はくじ引きと変わらないくらい保証されていない。
誰がこの肉体を作ったのか。
材料の提供者はたしかに親だ。
しかし成果物の品質の原因は運だ。親ではない。
親を責めることで、君に得るものは何もない。
この精神だろうか?
親として適切でない人格でも親にはなれる。そして親として振る舞うこともできる。
親の教育方針が間違っていても子供にそれはわかるまい。他人が口出しするには家庭的過ぎて、公的機関が口を挟めるのは法に触れるほどのひどい行いがあってからだ。
親の態度や教育が原因で、歪んだ性格に育ってしまうこともあるだろう。だが。
乳幼児はさすがに無理だが、物心がついて以降であれば反抗することはできる。痛い思いをしようとも。その反抗で死のうとも。それで天涯孤独になろうとも。親からの愛を求めてしまうのは人間の性質だけど、それでもじぶんの中の声が「嫌だ!」と叫び、その声に従うなら反抗することはできる。
子供の体力では力で抑えられてしまうだろう。子供の頭脳では言いくるめられてしまうだろう。子供の精神力では威圧されてしまうだろう。しかし、内なる声を殺さないことはできる。
内なる声を殺し、強者に蹂躙されることを許したのは誰か。
じぶんだ。
もちろん、やむを得なかったかも知れない。
無意味な抵抗をして殺されるよりましだったとも言える。
黙って従ったことは結果的に生き永らえる最良の選択だったかも知れない。
しかし、内なる声を殺したのであれば、それはじぶんが選択したのだ。
じぶんが選択した。
たとえ力でねじ伏せられたとしても、そのことを他人のせいにしてはいけない。
他人のせいにしないからこそ、じぶんでもう一度選択し直すという方法が残るのだ。
誰がこの精神を作ったのか。
幼少期からの影響は親にも原因があるだろう。
だがその影響を良くも悪くも形にしたのは、じぶんだ。
では、親が作ったのは何か
肉体でもなく精神でもない。
では何か。
君がこの世を味わうという機会を作った。
人生を楽しみ、苦しみ、笑い、泣く機会をもらったんだ。
もらいもんだ、大いに味わえ。