「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

料理は愛情、愛は理解

「料理は愛情」
言わずと知れた、料理研究家の結城貢の名言。
しかし広まっているのは誤解ばかりのようだ。

愛情を込めるというのは、「美味しくなーれ♪」と思いながら料理することではないし、好きな人のことを思い描きながら料理することでもない。
【自分が作った料理が褒められることを根拠もなく期待すること】ではないのだ。

美味しく作るために必要な要素は、材料の良し悪し、道具の手入れ、レシピの熟知、調理技術、食べる人の好みや健康などなどたくさんある。手抜きをすればその分だけ失敗したり味が落ちたりする。もしも「美味しく食べて欲しい気持ち」というのが愛情のひとつであるなら、美味しく食べてもらうための知識や技法を習得しようとするのが、愛情を形にするということだ。

具体的に列挙してみよう。
素材の鮮度や質を見ない。産地を気にしない。旬を知らない。栄養素を知らない。
道具の使い方を知らない。手入れをしない。大切に扱わない。
レシピを知らない。レシピと違う作り方をしてしまう。レシピの意味を考えない。
分量を正確に量らない。調理時間を正確に計らない。温度を正確に温度を測らない。
食べる人の健康状態を気にしない。何を食べるとどうなるかを知らない。食べ合わせの効果を知らない。

上記に当てはまることが多ければ多いほど、美味しく作るための努力をしていないことになる。
愛情が聞いて呆れる。


愛とは理解だ。

何を選び、どう調理すれば最も美味しくなるかという素材への理解。
使いやすい道具選びと、手入れの仕方、道具の使い方の理解。
レシピ、分量、下ごしらえなど調理方法の理解。
調味料の組み合わせによる味の理解。
栄養素の人体への影響、病気への影響の理解。

人間は、どうでもいいことに対して、理解する努力なんかしない。どうでもよくないから覚えようとし、理解しようとするのだ。愛があるから理解が深まる。愛がなければ深まらない。

理解していないというのは、それだけ愛していないということだ。

愛情込めて作った料理です (*´∀`*)

とかいいながら、愛情なんか微塵も込められてはいない。

食べる人だけに向けられた愛情(自称)は、
「こんなに時間かけた」だの、
「高い材料を使った」だの、
「だから自分は褒められてよい」という自分本位のたわ言でしかない。

これは、理解して欲しい認めて欲しいという自分の心の現れだ。
愛が欲しい欲しいと言っているんだ。
愛情を込めました?
そうじゃない。
込めたのは愛情ではなく、「愛情を寄越せという要求」だ。

愛情を込めたければ、相手を愛するのが正しい。
愛とは理解の先にある。
理解し、肯定的に受け入れること。
そして相手が幸せになるように力添えすること。


だから、「料理は愛情、愛は理解」。