感覚的であいまいで、ぼくは世界を説明できない
感覚的であいまいな主張は、感覚的であいまいな何かを根拠にしている。
あいまいなままにしていると、具体的に突き詰めて話すことが難しい。砂の上に城は建たない。
感覚的であいまいな議論は、結論も感覚的であいまいなものになる。
結論は「具体的に出すもの」なのに、感覚的であいまいな結論は、誰にとってもよくわからないものになる。
感覚的であいまいな会話は、解釈がバラバラだから噛み合わない。
何時間話してもどうどう巡りで、いつまでも結論が出ない。
「感覚的であいまいに知っている」ということが、いかに杜撰であるか理解できると思う。そんなものを「知っている」とはちゃんちゃらおかしい。
定義する
これを解決する方法は、感覚的であいまいな状態をやめ、「定義」することだ。
義(意味)を定めること。意思を持って決めることだ。
世の中に最初から決まっている意味や価値やルールはない。それらはすべて人間が決めていて、人間の都合で決められる。感覚的になんとなく決まったものもあれば、話し合いで明確に決められるものもある。*1
定義する目的は、誰もが使いやすい概念を作ることだ。感覚的であいまいなものが抱える問題、つまり「なんだかよくわからなくて人それぞれ過ぎてどうしたらいいかわからないこと」を解決することにある。それは明確にするだけでは不充分だ。*2
「明確にする」ではなく「決める」
定義するというのは、明確にその意味を決めるということだ。
同じようなこと、似た言葉があれば、同じなのか微妙に違うのかを決める。
微妙に違うなら、違う点をすべて決める。
「言葉を理解できる誰もが、同じ解釈ができる」ように決める。
二重の意味があるなら、二重の意味それぞれを決める。
あとで誤解が生まれないように、くどいくらい詳細に決める。
くどいくらい詳細にはすべきだけど、重複したり自己言及になったり誤解が生まれる表現は一切使わない。
そして最も重要なことは「言い切る」こと。不確かな表現は一切使わない。
間違っていてもいい。間違いとわかった時に恥をかいて訂正すればいいことだ。その恥をかく覚悟をもって言い切ることが何よりも重要だ。
これは一般的な言葉についても同様だ。辞書に書いてあることは絶対ではない。百科事典に書かれていることは誰にとっても公平で正確な事実ではない。ある言葉を、ある意味で使うということは、その意味で使うと「自ら決める」ことで、感覚的であいまいではなくなる。そして間違っていたら決めた責任をとって恥をかけ。
「説明できないことは知らないこと」とじぶんに断言する
定義することを別の言葉で表現すると、「言葉によって、過不足なく明確に説明できること」だ。
なぜなら、説明できないことは知らないのと同じことだからだ。
定義していくことで、感覚的であいまいなものは、限定的で明確な概念に変わる。
限定的で明確な概念は、説明可能な知識になる。
どこまでも人間の都合でしかない
ただし、それがどのような内容であれ、結局のところ人間の都合を基準にしている。
そして定義する人間の都合は変わる。一度定義したら不変ではなく、人間の都合とともに調整され変遷していく。「普遍的な」という言葉はあるが、本当に普遍的なものであるかどうかはその都度確認しなければならない。「普遍的」という言葉に依存して確認を怠ることは、せっかく定義したものを感覚的であいまいなものに再び戻すことだ。
ところで、誰が定義するのか。
どんなことをであれ、「限定的で明確に説明できないすべての人」が定義するのがよい。定義することの難しさと、定義した後の便利さを知ることができる。
また、こうも言える。
従属的に生きる人ではなく、主体的に生きるすべての人が定義するのがよい。従属的に生きる人はそもそも自ら進んで定義などしないが、主体的に生きるということを実感できない人は定義することによって「意味を決める」ことを体験できる。それがまさに主体的に生きることだ。
最後に。
定義したその概念こそが「あなたの」価値観であり世界観だ。
感覚的であいまいな概念(言葉、思い)を使っているうちは、いい加減で杜撰な世界から抜け出すことはできない。
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