「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

なぜ伝言ゲームは正確に伝わらないのか

伝言ゲームというものがある。
数人が一列に並び、AさんからBさんに、BさんからCさんにと、順番に伝言をしていくだけのゲームだが、面白いことに簡単な文章でも正確に伝わらない。参加する人数(伝言回数)が多いとそれだけ不正確になりやすい。

なぜメッセージの内容が変わってしまうのか。
 
 

人間は「そのまま」を受け取れない

人間を他の動物と比べた時の最も大きな違いは想像力だ。人間は自由に想像することができる。
これはたぶん多くの人が捉え違いをしていると思うが、人間は事物をそのまま受け取ることができない。目や耳などの感覚器を使って外部(自分以外)の情報を受け取ることができるが、それは事物そのままではない。

たとえば、見る限りは観葉植物に見えるけれど触ってみるとプラスチック製の作り物だったり、馬の足音のようだけど実はお椀を使った音響テクニックだったりする。そのように「得られた情報から想像したモノ」と「事実」が異なることは世の中にたくさんある。慣れてしまって当初の驚きなど忘れてしまっただろうが、最初に知った(気がついた)時には驚きがあったはずだ。

仮に、見て聞いて嗅いで触って味わったとしても、食品に含まれる原材料が天然か合成かを判断することはかなり難しい。よほど敏感な人でないとまったくわからないだろう。
 
 

人間は体の機能に縛られている

決定的な問題として、人間に感覚器として備わっていない要素は、人間には知覚できない。アモルファスなどの分子構造も顕微鏡で調べれば違いを知覚できるが、それは顕微鏡という道具を使って視覚を強化しているだけだ。超音波も人間は聞き取れなくとも音波を測定する機械で測定できる。これらは人間の感覚器を元に、道具で強化しているに過ぎない。

人間には人間の感覚器に由来する測定方法以外は想像しにくい。
 
 

感覚器の限界

コンピュータ用語では人間とコンピュータを繋げるキーボードやマイクのことを「インターフェース」と呼ぶ。これは異なる性質を持つものの橋渡しをするための仕組みのことだ。目も耳も、世界と人間を繋げるインターフェースだと言える。

しかしインターフェースは万能ではない。たとえばキーボードとマイクは操作方法がまったく異なるため、できることに違いがある。キーボードを使って音声入力をすることは普通はできない。

人間の目や耳も同様で、目は光を知覚することはできるが音波を知覚することはできない。耳はその逆だ。備わったインターフェース=感覚器にはそれぞれに限界がある。その限界のある感覚器を使いながら複雑な情報を取得して、ひとつのまとまり(グループ、イメージ)として事物を記憶している。
 
 

そのままではないソレは何か

たとえば水は、「透明(視覚)でちゃぷちゃぷ音(聴覚)がして冷たかったり温かかったり(触覚)する。無味無臭(味覚、嗅覚)だが雑味を含むこともある。」といった具合だ。もちろん見た目には水でも、実際に飲んでみたら水ではない場合だってある。でもソレを見た時にまず水だと思ってしまう。なぜ水だと思ってしまうか。水の特徴として経験的に記憶したイメージが自動的に想起されるからだ。

つまり、水を水として認識しているのではなく、記憶の中からソレに近いイメージが「水」だったから、水と認識しているのだ。
 
 

人間は想像(イメージ)だけで生きている

人間は事物をそのまま受け取れない。感覚器で得られた複合的な情報を「名付けられたイメージ」として記憶し、それを呼び起こして認識している。私たちが認識しているソレとは私たちの記憶にあるイメージだ。

たとえば錯覚というものも、この認識方法が原因で起きる。記憶しているイメージに酷似した別物を、ソレと錯覚するわけだ。だまし絵や偽物などの錯覚はよく観察したりタネ明かしされれば別物と認識できるが、それまでは自分の認識を疑うことは困難だ。なぜならイメージと合致すればそれを本物と自動的に認識するようになっているからだ。
 
 

赤ん坊を想像してみよう。

赤ん坊が最初に触れるものは当然記憶にはない。ソレがなんなのかまったくわからない。だから見て、触り、舐め、嗅ぎ、聞く。そうして情報を取得して覚えていく。この作業がイメージ化であり、「イメージが固定化したものが記憶」になる。

もう一度書こう。
「イメージが固定化したものが記憶」になる。

人間は様々なものを記憶して世界に適応している。
言い換えれば、記憶されたイメージを世界の代替物として認識しているということだ。

だから人間は自分のイメージの世界の中で生きている。
当然だが、あなたと私の持つ世界のイメージは、似ているようで別のソレだ。
 
 

想像と創造

「想像」を英語にすると「イメージ」、「創造」を英語にすると「クリエイティビティ」になる。

「人間を他の動物と比べた時の最も大きな違いは想像力だ。人間は自由に想像することができる。*1」と最初に書いた。これは想像だからイメージのことだ。

日本語ではまったく同じ音(おん)なので混同されやすいが、創造はイメージではなくクリエイティビティのことで、新しいモノを生み出すことを指す。だがこれもイメージとは切り離せない。

イメージの中で生き、イメージを使って世界を認識している人間には、イメージできないものを作り出すことができない。もちろん偶然の組み合わせで意図しないものを作り出すことはあるが、それにどんな意味や価値を付加するかはイメージ化できるかにかかっている。イメージ化できないものは何と認識されるのか。

ゴミだ。
 
 

創造とは意味や価値を変えること

こんな話がある。
雪道を車で移動する時、現代ではスタッドレスタイヤだが、昔はチェーンを巻きつけるかスパイクタイヤを使った。スパイクタイヤは、タイヤにすべり止めの鋲(びょう)を打ち込んだものだ。これで舗装道路を走行すると、アスファルトを削って粉塵をまき散らす。この粉塵被害が問題となって法律で制限された時、鋲のメーカーには大量の在庫が余ってしまった。

このメーカーは大量の在庫をどうしたか。
「すべりどめ」のお守りとして受験生向けに売ったのだ。
もう売れないスパイクタイヤの部品としか思わなければゴミだが、別の価値を見出したことで商品になったわけだ。

これを言い換えると、「既存のイメージを変更した」ということだ。そしてこれはクリエイティビティの重要な要素だ。新しいモノを生み出すというのは、単に今までにないモノを作ることではなく、様々なイメージを掛け合わせて新しい意味や価値を生み出すということだ。今までにない形のトンカチを作っても、それはトンカチ以上の意味を持たないことを考えれば理解しやすいだろう。

新しい意味や価値を生み出す。これこそがクリエイティビティであり、そのためには既存のイメージを変更できる力がなければならない。
 
 

内部処理を探る

さて、かなり大きく脱線したように見えるので話を戻そう。この文章のテーマは「伝言ゲームはなぜ正確に伝わらないのか」だからね。

伝言ゲームは耳で聞いた言葉を口で伝えるだけのゲームだが、そのプロセスを分解すると単に文章を復唱しているのではないことがわかる。

たとえばAさんからBさんに伝える時は、このようなプロセスで進行する。

 Aさんが言語化
   → Bさんが聞く
     → Bさんが聞いたことをイメージ化
       → Bさんがイメージを言語化

Aさんから聞いたことをBさんはそのまま言語化していない。これは発話された音そのものを記憶するのではなく、その言葉の意味を理解しようとするために、一度イメージ化してしまうからだ。人間は記憶するためにイメージ化するので、超短期的な記憶でもイメージ化しないと記憶しにくい。だからイメージ化する。そして、イメージから言語化する時には自分の言葉に変更してしまうわけだ。

ちなみに、コンピュータソフトウェアの処理として考えるとこのようになる。

 インプット → なんかの処理 → アウトプット

この途中に挟まれた「なんかの処理」がイメージ化だ。
しかし人間はそれぞれ似て非なるイメージしか持てないために、イメージ化される時と言語化される時に誤差が発生する。「Aさんのなんかの処理」と「Bさんのなんかの処理」は別の処理なのだ。そりゃあ結果は別物になるわな。

おまけにこの「なんかの処理」ではクリエイティビティが発揮される。そのつもりがあってもなくても発揮されるときは発揮されてしまう。ますますもって別物になるわけだ。
 
 

まとめ

この文章で表現したかったことは、
・ 人間にとってはイメージがほぼすべてであり、
・ 伝言ゲームでメッセージの内容が変わってしまうのは人によってイメージに差異があるからであり、
・ イメージの差異によってコミュニケーション不全が起き、
・ 個人は自分のイメージによって世界を明るくも暗くも認識する

ということだ。

心霊や超能力などのオカルトも、呪術や言霊信仰も、催眠術やプラシーボ効果も、パブロフの犬も、家庭の問題も、すべては人間がイメージで生きているために起きる現象だ。

長々と書いてきたが、とにかくまあこのような仕組みがあるために、「伝言ゲームは正確に伝わらない」のである。
 
 

*1:動物にも想像力はあるが人間のように自由ではない...ように見える。