「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「寄り添うこと」と「悲しみ」を見ること

友達をどういう定義で考えるかは好きにすればいいと思うので、私も私の思いたいようにしている。そういう意味で、私には「私の友達」についての明確な基準がある。その定義に当てはまらない人は、どれだけ頻繁に会っていても仲良くても私は友達と呼ばない。

その基準を端的に表現すれば、

「(私に)相手の悲しみが見えた」

かどうかだ。

この悲しみというのは悲しいエピソードのことではない。エピソードの受け取り方は人によって異なるもので、相手のエピソードを私の解釈で悲しいと断ずることはできない。私の解釈よりもずっと、当人がそのエピソードにどんな意味を与えているのかが重要だ。そしてそこに悲しみがある時、「当人にとって」どんな意味の悲しみなのかを知ることが重要だ。

また、当人がその意味で解釈した理由・原因も考えてみる。口癖や受け取り方の偏り、象徴的なエピソード、行動基準や好き嫌い、様々なことが絡み合っているはずだ。「どうしてそう思うのか?」を追いかけることで、当人の中で絡み合った糸のひとつひとつが少しずつ鮮明に見えてくる。

大切な人をなくした悲しみにも、なくしたことが悲しいというだけではなく、もう声を聞くことができないとか、抱きしめることができないとか、一緒に笑うことができないとか、褒めてあげればよかったとか、もう謝ることができないとか、共に歩きたかったとか、人によって込める思いは様々だ。

たくさんの思い出や感情が綯い交ぜになり、言葉にすることができない場合もあるだろう。思いを表すのにぴったりの表現を知らないこともあるだろう。余計なものがたくさん含まれた言葉を使いたくないこともあるだろう。

もしも私の言葉で私の解釈を説明したとすれば、それは当事者ではない私が、当人のエピソードを利用して私を表現しているということだ。しかし、他者は私を満足させるために存在しているのではない。当人のエピソードも感情も解釈も、すべて当人のものだ。そこに私が断じてよいことはただのひとつもない。だからその悲しみをよく見るのだ。

もちろん、見えたからといってそれが純然たる事実だとは言えないし、結局は解釈のひとつに過ぎないのだけれど、それでも「私を表現するためのもの」ではなく、「相手を理解するためのもの」として受け止めることはできるように思う。それは、私にとっての意味を云々するのとはまったく別のこととして、「相手にとっての意味を知る」ということでもある。

他者を理解しようとする時、その人の喜怒哀楽を理解することはどれも大切ではあるけど、私は、最も見るべきなのは「哀」、つまり悲しみだと思うのだ。悲しみにはその人の無力感や無常感が表れている。それはその人の弱さを説明するものであり、その人が最も説明を求めてやまないものだ。

誰かに寄り添って生きる力を支えるというのは、言い換えれば、その人の「弱さの傍ら」にいて支えるということだ。弱さがどこにあるのかわからないのに、その傍らに立つことはできない。

その人の悲しみが見えたと思えた時、私は、自分がその傍らにいることを思い浮かべることができる。

たいしたことはできないかも知れない。
支えられないのかも知れない。
しかし、傍らにいることもできない自分が、よく知りもしない相手を友達と呼ぶことを、私は私に赦さない。

私にとって誰かに寄り添うこととは、友達として傍らにいるということなのだ。

生きるための哲学相談

「その人が無自覚に前提していることを見抜く」のは哲学の得意とするところで、突拍子もない理屈だろうと矛盾だらけの理屈だろうと、それらを読み解くための質問はできる。しかしこれは、哲学の知識に依るものではなく、実践経験に依るところが大きい。哲学を実践していたらできるようになるし、実践していなかったら知識的に詳しくてもできない。*1

私は哲学相談をやっている人たちの哲学相談の定義を知らない。だからその人たちの定義とはおそらく違うと思うが、私は以下のような要素が必要だと考えている。

  • 助言者
    • 「哲学的視点や手法での読解」に導くように質問する
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みた回答を実演する
  • 相談者
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みながら助言者に回答する
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みながら助言者に質問する


哲学相談をひと言で表現するとしたら、「哲学的視点や手法での読解」が明確に意識された協同探求だ。そうでないものを、私は哲学相談とは呼びにくい。もしも助言者の知識の開陳や、助言者の知識による判断に終止するものを指すのだとすれば、それはレッスンとかレクチャーと呼ぶのが妥当だろうと思う。

わからないことを相談しているのだから相談ではあると思うし、助言者に期待するものが哲学の知識であれば哲学相談と呼べそうではある。しかしそれでは「哲学の知識こそ哲学だ」と言っているようなものだ。もしそうだとすれば、哲学書を丸暗記した人は哲学をしているということになるだろう。

だから、過去の哲学者たちはみんな丸暗記で哲学者になったのだ。

…いや、そうではあるまい。誰かの知識を丸暗記で覚えたのではなく、ひとつひとつの問題に向き合い、疑い、つぶさに観察し、新しい概念を生み出し、仮説を立て、分析し、推論を重ねたのだと思う。

そもそも人間のすべての問題が既存の哲学書で解明されているわけではないのだから、問題をつぶさに読み解かずに既存の概念を当てはめることは「知識でレッテルを貼る」ことに他ならず、最も忌避されるべきことだろうと思う。そして、つぶさに読み解く過程では、「もっともらしそうな概念が最も警戒すべきもの」だろうと思う。読み解く過程ではバイアスにしかならないからだ。

既存の知識にあてはめられたら楽だ。
それ以上、考えなくていい。
すぐにわかった気になれたら気持ちがいい。
だから、当てはまりそうなものを探す。

いやいや、それは哲学じゃないだろう。よく観察もせずに決めつけたら哲学とは呼べない。

そこにあるものをそのまま見る。しかし既存の知識が邪魔をする。その前提を取り払い取り払い、そのままを見ようとする。なぜなのか、どうしたらいいのか、もっとうまい解釈の仕方はないのか、どうしたらより前向きに生きる力を生み出せるのか。

個人のための哲学は、生きる力を目指さなければおかしいのだ。

私は、哲学相談の助言者にとっての相談者は「哲学的な研究対象」であって、相談者にとっての相談者自身を「哲学的な研究対象」にしていくものでなければおかしいように思うのだ。そうであれば、個人の諸問題に対しても哲学的に向き合い、解明しようとするのでなければおかしい。そしてそれは助言者が行って答えを教えてあげるのではなく、「相談者が独力で行える」ように仕向けなければ相談者にとっては何の解決にもならないように思うのだ。

相談者が生きる力を生み出す術を手に入れる、それが哲学相談の目指すゴールじゃないかと思う。

*1:できないというか、知識のバイアスで別の問題にすり替えてしまいがちだ。

人としての成熟

大切にするとはどういうことか。

大事に思うとか愛することとかってのは、具体的じゃないので説明にはなっていない。では具体的にどういうことなのか。

それを考えるためには、まず「大切にしたいものは何か」を考える必要がある。

誰かのことを大切に思ってる、あなたが大切だ...とか言いながら、その実、つまらないことでいつまでも悩んでたり、自分はダメだなあと思ってみたり、自分のここが嫌いとか言ってみたり、そんな感じで自分を大切にしていない人が世の中にはたくさんいる。このような自分を大切にしていない人は、他人も大切にすることができない。

なぜかというと、練習をしないと身につかないからだ。自分相手だろうと他人相手だろうと、練習してないことはうまくできない。

たとえば「大切にするとはどういうこと?」ということを質問してみると、人によって様々な答えが返ってくる。

  • 思いやること、気遣うこと
  • 助けてあげること
  • 許すこと
  • 一緒にいること

などなど。

わかるだろうか、これらは自分が他人にして欲しいことだ。そして、こういう答えを返す人のほとんどは、自分に対してそれをしていない。自分を大切にせず、他人に大切にしてもらうことを求めている。

他人に大切にしてもらうことを求めていると、無償で他人を大切にしようという気持ちにならず、自然と見返りを求めてしまう。

「私は○○してあげているのに!」などの不満も出てくる。たとえ言わなくても心で思っていればそれはどこかで必ず伝わるものだ。そういう「返せ」というプレッシャーを相手に与えること自体、大切にしているのとは真逆だ。だからもし本当に大切にしたいのなら、まず自分を満足させ、他人に対してはただ与えるだけで良いという精神状態になる必要がある。

自分を大切にしていれば「他人に大切にされたい!」と思うことが少なくなる。その逆に、自分を大切にしていない人は、他人に大切にしてもらいたいと思うばかりで、大切にしてあげることができない。これは「大切にするということがどういうことかわかっていない」のだ。だからそもそも「大切にできない」のだ。

では大切にするとは、具体的にどういうことか。

先ほど「自分を大切にしていないと...」という話をしたので、今度は【自分を大切にする】とはどういうことか考えてみよう。

自分の望みを叶えることだろうか? 自分を甘やかすことだろうか?
それともその逆で、自分の欲望に負けずに、世間的に立派といわれるように振る舞うことだろうか?

どれも違う。
その前にもっと重要なことがある。

それは「知る」ということだ。

自分が本当に望んでいることを知っているだろうか?
自分が一番重要だと思っていることを知っているだろうか?
自分の口癖を知っているだろうか?
自分の思考の癖を知っているだろうか?
自分がよくしてしまう失敗を知っているだろうか?

誰かを大切にしたいなら、その人が何を望んでいるのか、何を嫌だと思っているのか、よく知らなければ大切にはできない。口癖や思考の癖や、よく失敗することを知って対応することもできない。
同じように、自分を大切にしたいなら、自分が本当に望むこと、本当に嫌だと思うことを知らなければ大切にはできない。口癖や思考の癖や、よく失敗することを知ってうまく乗り切ることもできない。

この「知る」ということは実は簡単ではない。
人間は自分に嘘をつくからだ。
だから何度も何度も、時間を変え場所を変え、自分に聞いてみなければならない。自分に聞くというのは、要するに自分を観察するということだ。*1

自分がどんな時に、どう感じ、どう反応するのか。これをよく知ることで、今まで見えていなかった自分、あるいは見ようとしなかった自分も見えてくる。そして、自分が見えるようになり、こんな自分は嫌だと思う部分を受け入れて許すことができるようになると、心が軽くなる。

実は自分を苦しめているほとんどのことは、自分自身が行なっている。自分をよく知ることで、それまで、どれだけ自分で自分を苦しめていたのか知ることができる。そして、知ることでやめることもできる。

これが自分を大切にするということだ。

これが実体験でわかるようになると、他人に見返りや世間的な体裁を求めることが、いかに自分自身を苦しめ、他人を苦しめることになるかが、肌で実感できるようになる。

そうなると、他人を【自分の一部】として大切にすることができるようになる。

このようになると、「自分と同じように他人を愛する」ということができる。

今書いたことを実体験で理解している人を、私は成熟していると表現しています。成熟している人をものすごく簡単にまとめて表現してしまうと、「自分が大好きで、自分を大切にする方法を知っていて、その方法で自分と同じように他人を愛せる人」ということになる。

*1:スピリチュアルとかで言われるような内的な自分に話しかけるということではない。自問自答するのであればいいが、「自分と違う内的な自分がいる」と考えるのは人格を分裂させる自己暗示になりかねない。「自分を他者のように扱う」のは百害あって一利もない。