「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学ってなんだろうね

論理的であることは、哲学の一要素に過ぎない。
論理的に考え、論理的に話せれば、哲学ができているとは言えない。
もし論理的であればすなわち哲学であるとするなら、論理的に構成された契約書も哲学になる。しかしそんなわけはない。

また、知識も哲学の一要素に過ぎない。
哲学の知識があれば哲学を理解しているとは言えない。
もし哲学の知識があればすなわち哲学を理解しているとするなら、哲学書を丸暗記した人は哲学を理解していることになる。しかしそんなわけはない。

哲学の概念理解も哲学の一要素に過ぎない。
哲学の概念を理解していれば哲学をしている、理解しているとは言えない。
もし哲学の概念を理解していれば哲学をしているとするなら、現実の問題を説明したり解消するための新しい概念を生み出せなくても哲学をしていることになる。それでは哲学は一切発展しないことになるので、そんなわけはない。

新しい概念を生み出すことも哲学の一要素に過ぎない。
新しい概念を生み出せば、あるいは生み出そうとすれば哲学をしているとは言えない。
もし新しい概念を生み出したり、生み出そうとしていればすなわち哲学になるとするなら、形だけでなんの役にも立たない概念を生み出しても哲学していることになる。そんなわけはない。

本質を捉えることも哲学の一要素に過ぎない。
本質を捉えれば哲学ができているとは言えない。
もし本質を捉えれば哲学ができているとするなら、恋愛や人生やビジネスの悩みの本質がわかったり、料理や絵画で素材対象を適切に扱うことができれば哲学できていることになる。そんなわけはない。

他にもあるかも知れないが、上記それぞれは哲学をする上での一要素に過ぎず、「それだけ」では哲学をしているというには不十分だ。しかし、まったく哲学していないとも言い切れない。

それから、暴力はよくないと叫びながら人を殴りつける人の主張は矛盾している。その人の言う「よい」はその人の行動原理になっておらず、その人自身が自分の主張に納得できているとは言い難い。そのように、行動原理になっていない主張はどれほど優れて見えようとも、哲学だとは考えにくい。哲学は、何かを解き明かした先にある行動までを指すものだと思う。

以上を踏まえ、これで完全に言い表せているとはとても言えないのを承知で言うけれど、
哲学の要素を複合的に使いこなしながら【よりよい思考と行動に結びつけること】が哲学すること
...とは、少なくとも言えるんじゃないかなと思う。
 
 

哲学と対話と哲学対話

「哲学とは何か」というのは広大で多様に見えてしまい、こりゃ完全に言い表すのはしばらく無理だなとは思っていたけど、同じように対話も完全に言い表すことができない。*1
一年や二年考え続けたところでわかるようなもんじゃないなってことが実感できた程度。

いろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな大切も幸せもあって、いろんな事情や影響があることを知るたびに、自分はまだまだ全然知らないのだと思い知る。

ともすれば、理屈は人間を機械のようにあつかいかねない。「べき論」がそうだ。この理屈は正しいからこの理屈に従え!苦しめ!死ね!というのは、いかに正しく見えようとも哲学としては程度が低いものだと思う。

「そういう風に解釈できた、完璧だ」と思えても必ず穴があるものだ。意味や価値や定義が人間の作った解釈を根拠にするものだとすれば、人を幸せにしない解釈や哲学に有益性はない。

 

誰かを犠牲にしなきゃ成り立たない理屈なんて、手抜きってもんだよ。だって哲学は「人が幸せになる方を志向する」ものだもの。

 

人間も社会もシステムもそんなに単純じゃない。ありとあらゆる場面で人にやさしく受け入れやすく、しかも適正で公平で、わかりやすく応用しやすく、最終的にあらゆる人が幸せに"向いやすくなる"、柔軟で強靭な理屈を見つけたい。しかし道は本当に遠い。

だからせめて聞いて確認することだけはしたい。それも、できれば思いやりを示しながら。しかしそれがまた難しい。

*1:そもそも完全なんて不可能だとしても、それでもそっちを目指して積み上げるぞって主旨です。

私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!

真理や叡智に至った人がいると仮定して、その人が日常的に真理も叡智も使っておらず、言行のすべてが私利私欲を満たそうとするものでしかなかった場合、その人が表現しているのは真理でも叡智でもなくて私利私欲だろう。

真理や叡智を日常的に使っている人(A)がいると仮定して、だけどそれを私利私欲だと見た人(B)がいる場合、BさんにとってはAさんの行動には真理や叡智を感じられない。

同様に、真理や叡智を日常的に使っていない人(非A)を見ても、それを私利私欲ではないと受け取る人(非B)がいる場合、非Bさんにとっては非Aさんの行動には真理や叡智が伴っているように見えるだろうか。検討する前に信じているんだから、そりゃ何かは見えるんだろうな。

では、真理や叡智を持っていない人が持っているふりをしている場合、他人には何が見えるのか。持っているふりでは実際に使えないのだから(非A)、使っている様を見ることはできない。使っていなくても「きっと持っているだろう」という臆見で判断する人(非B)にとってはたぶん持っているように見える。

真理や叡智を持っている・使っているに関わらず、見る側が持っていると思えば持っているように見えるし、見る側が持っていないと思えば持っていないように見える。見る側の主観によってしまう場合、客観的な判断は困難なように思う。

では、見る側の主観によらない方法でなら判断可能なのだろうか。

主観によらないのであれば、客観的な基準(モノサシ)が必要になるけど、普遍的で明確で客観的なモノサシって、ぱっと見どこにもないように思う。

サルトルという哲学者の言葉で「自分がすることを全員がしたらと問え」というのがあるけど、こうして問うた先にカントという哲学者の定言命法による「妥当」が見えてくるように思う。しかしそれもそこまで。自分の問いと答えにいかに妥当性があろうとも、それを【絶対的基準】に据えようとするのは独善になると思うのだ。

こういうことを考える時、私は「人間とは異なる嗜好を持つ宇宙人」を当てはめて考える。もしその宇宙人と共存するのだとすれば、嗜好が異なるので争いを完全に回避することは難しい。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?という視点で考えることにしている。宇宙人じゃなくても、人食い人種とかでもいい。食べられちゃたまらないけど、人を食べることが一番の幸せって人と共存しなきゃならないとしたら、どうすればいいのか。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?

共同体の中にルールは必要だから、完全ではなくともルールとして一旦定めてみるのはいいと思う。しかしそれを真理や叡智であるかのように「絶対視」することはとても危険だ。いかに妥当性を疑えないとしても【自分や自分たちだけに見える妥当性】かも知れないからだ。

別の名はもちろん【独善】だ。

まったく賛同できない時にそんなものを向けられたら、たいていの人は気分悪いだろうと思う。タイトルに書いたように「私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!」と思っている人はそれほど多くはないとは思う。だけど「正しさは判断可能なものだ」と思っている人はとても多いんじゃないかなと思う。

誰にでも当てはまる正しさなんて、判断可能なのだろうか?