「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学と対話と哲学対話

「哲学とは何か」というのは広大で多様に見えてしまい、こりゃ完全に言い表すのはしばらく無理だなとは思っていたけど、同じように対話も完全に言い表すことができない。*1
一年や二年考え続けたところでわかるようなもんじゃないなってことが実感できた程度。

いろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな大切も幸せもあって、いろんな事情や影響があることを知るたびに、自分はまだまだ全然知らないのだと思い知る。

ともすれば、理屈は人間を機械のようにあつかいかねない。「べき論」がそうだ。この理屈は正しいからこの理屈に従え!苦しめ!死ね!というのは、いかに正しく見えようとも哲学としては程度が低いものだと思う。

「そういう風に解釈できた、完璧だ」と思えても必ず穴があるものだ。意味や価値や定義が人間の作った解釈を根拠にするものだとすれば、人を幸せにしない解釈や哲学に有益性はない。

 

誰かを犠牲にしなきゃ成り立たない理屈なんて、手抜きってもんだよ。だって哲学は「人が幸せになる方を志向する」ものだもの。

 

人間も社会もシステムもそんなに単純じゃない。ありとあらゆる場面で人にやさしく受け入れやすく、しかも適正で公平で、わかりやすく応用しやすく、最終的にあらゆる人が幸せに"向いやすくなる"、柔軟で強靭な理屈を見つけたい。しかし道は本当に遠い。

だからせめて聞いて確認することだけはしたい。それも、できれば思いやりを示しながら。しかしそれがまた難しい。

*1:そもそも完全なんて不可能だとしても、それでもそっちを目指して積み上げるぞって主旨です。

私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!

真理や叡智に至った人がいると仮定して、その人が日常的に真理も叡智も使っておらず、言行のすべてが私利私欲を満たそうとするものでしかなかった場合、その人が表現しているのは真理でも叡智でもなくて私利私欲だろう。

真理や叡智を日常的に使っている人(A)がいると仮定して、だけどそれを私利私欲だと見た人(B)がいる場合、BさんにとってはAさんの行動には真理や叡智を感じられない。

同様に、真理や叡智を日常的に使っていない人(非A)を見ても、それを私利私欲ではないと受け取る人(非B)がいる場合、非Bさんにとっては非Aさんの行動には真理や叡智が伴っているように見えるだろうか。検討する前に信じているんだから、そりゃ何かは見えるんだろうな。

では、真理や叡智を持っていない人が持っているふりをしている場合、他人には何が見えるのか。持っているふりでは実際に使えないのだから(非A)、使っている様を見ることはできない。使っていなくても「きっと持っているだろう」という臆見で判断する人(非B)にとってはたぶん持っているように見える。

真理や叡智を持っている・使っているに関わらず、見る側が持っていると思えば持っているように見えるし、見る側が持っていないと思えば持っていないように見える。見る側の主観によってしまう場合、客観的な判断は困難なように思う。

では、見る側の主観によらない方法でなら判断可能なのだろうか。

主観によらないのであれば、客観的な基準(モノサシ)が必要になるけど、普遍的で明確で客観的なモノサシって、ぱっと見どこにもないように思う。

サルトルという哲学者の言葉で「自分がすることを全員がしたらと問え」というのがあるけど、こうして問うた先にカントという哲学者の定言命法による「妥当」が見えてくるように思う。しかしそれもそこまで。自分の問いと答えにいかに妥当性があろうとも、それを【絶対的基準】に据えようとするのは独善になると思うのだ。

こういうことを考える時、私は「人間とは異なる嗜好を持つ宇宙人」を当てはめて考える。もしその宇宙人と共存するのだとすれば、嗜好が異なるので争いを完全に回避することは難しい。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?という視点で考えることにしている。宇宙人じゃなくても、人食い人種とかでもいい。食べられちゃたまらないけど、人を食べることが一番の幸せって人と共存しなきゃならないとしたら、どうすればいいのか。そのような場合でも通用するような妥当性だろうか?

共同体の中にルールは必要だから、完全ではなくともルールとして一旦定めてみるのはいいと思う。しかしそれを真理や叡智であるかのように「絶対視」することはとても危険だ。いかに妥当性を疑えないとしても【自分や自分たちだけに見える妥当性】かも知れないからだ。

別の名はもちろん【独善】だ。

まったく賛同できない時にそんなものを向けられたら、たいていの人は気分悪いだろうと思う。タイトルに書いたように「私には真理や叡智がわかる!他人の間違いもわかる!」と思っている人はそれほど多くはないとは思う。だけど「正しさは判断可能なものだ」と思っている人はとても多いんじゃないかなと思う。

誰にでも当てはまる正しさなんて、判断可能なのだろうか?
 
 

「生き方」からこそ自尊心は生まれる

成人したばかりの頃、現実を生きるということがどういうことなのかまだ知らなかった。

今の私は、現実を生きるということがどういうことかを知っている。期待したほどうまくいかないし、病気もするし、誤解もされる。ちょっとしたいいことは長続きしないし、ちょっとした悪いことも長続きはしない。そして、少しずつ積み重ねたものは、良いことでも悪いことでも強い影響力を持つ。

人間にとっての「生きる」はとても複雑で広大だ。他者との関わり方もとても複雑で広大だ。生きることも、他者と関わることも、考えることも、そして「自分を作る」ということも、どれも一筋縄ではいかない。

こういったことは、本を読んで考えただけではわからない。それは必ず足りない。それは必ず間違っている。

たとえば、小さな世界で、少ない経験で、何かがわかった気になることがある。

「わかった」と思うことは、実はかなり安易だ。

なぜなら、小さな世界、少ない経験だからこそわかった気になれるのであって、広大な世界や整理もできない大量かつ複雑な経験を踏まえたら、わかったなどと言えるわけがないからだ。

また、人は他者の何もわからない。

いや、少しくらいはわかることもあると思うだろう。だがそれは「私から見えた何か」に過ぎず、氷山の一角がたまたまトマトにそっくりだったからそれをトマトだと断ずることと何も変わらない。

だからこそ、人は他者と対話する道を捨ててはいけない。

わかろうとすることを放棄するのであれば、たとえそれが極々一部のことに限ったつもりであろうとも、他のことでは絶対に放棄しないと誓おうとも、必ず思考の綻びに繋がる。必ずだ。

なぜなら、自分の生き方として「わかろうとしなくていい」場合を自分の中に持ってしまったからだ。自分の生きる世界を、自分から狭く小さいものにしてしまったからだ。

なんでもそうだが、今この時は、それが将来の何に繋がっているのかわからない。たいていのことは、予想もしないことに繋がっている。

20年も経ってようやく、あの時のあれが今に繋がっているとわかることがある。というかそんなことばかりだ。きっとこの先もまた予想外のことに繋がっていると思い知るのだろう。

「自分の人生にも他者の人生にも同じように敬意を払う」という決めごとは、自分の中に矜持を生み、人生を豊かで満たされたものに育てていく。

逆に、敬意を払わないことを選んだ人は、そのことで生まれる苦しみに長い間囚われることになる。わからなくていいことを増やしてしまった人は、そして自分の世界を狭く小さいものにしてしまった人は、その苦しみが自分の生き方のどこから来ているのかさえ気づかない。

その人の生き方は、その人が決めてよいのだ。道の途中かも知れない。迷いの中で苦しんでいるのかも知れない。明日には真逆の意見を持つようになるのかも知れない。人は私の都合では変わらない。しかし、人はその人の都合で変わることができる。今見えるその人の「それ」は、その人のすべてではない。

他者の生き方の良し悪しを断ずることができるほど、他者のことがわかったと言えるようには、人間は誰ひとりとしてなれない。

わかろうとすることを放棄せず広い世界を恐れない矜持と、他者の生き方への敬意は、自尊心を生む。自分の生き方に矜持を持ちたいのであれば、他者の生き方に敬意を払わなければならない。

いつであれ、どこであれ、誰に対してであれ。

矜持と敬意は自尊心そのものだ。
矜持と敬意を持った「生き方」からしか、自尊心は生まれない。