共感について
一般に使われる「共感」という言葉には、二種類の意味があると思っている。
- ある意見や観点について、納得感を得たという意味で使われる共感
- 他者の感情について、同じように感じるという意味で使われる共感
私は、1.の共感については、主観的な意味が強く、他者の考えに拠らずに成立するものだと思うので、まったく異議がない。
しかし、2.の共感については、「他者の感情と同じ感情を持った」という意味になるので、まったく賛成できない。ただの幻想だと思っている。
他者がどんな感情を持ったのか、どうしてわかるのだろうか?
「私」がそう思っているだけで、他者の感情を誤解していないとどうして言えるのだろうか?
ここに私は、「私は他者の感情がわかるのだ」という傲慢さを感じるのだ。
「納得できる理由を推測することができる」というのであれば、疑う余地を含んだ推測なので違和感はない。しかし一般に使われる「共感する」という言葉の意味は、「疑いの余地がない確信」を前提として使われているように思う。
感情というのは原理的にプライベートなものであり、さらに本人であっても「その感情が意味する全部」を捉え切ることは難しいものであるのに、だ。
言葉で表現するために、大雑把に喜怒哀楽のように感情を区別してはいるが、実際の感情は「様々な性質が」「様々な強度で」複合的に発生するもので、一概に単語で表現しきれるものではなかったりする。
そんな複雑なモノを、しかも自分ではない他人のモノを、「わかる」と言うのは誠実ではない。
だから、他者の感情を直感的に理解したという意味で使われる「共感する」には、非常に違和感を感じ、信用できないものを感じる。
トロッコ問題で解くものは何か
トロッコ問題というものがある。
詳しくは以下のリンク先を読んでみて欲しい。私がここで説明するよりよっぽど詳しく書かれているから。
- トロッコ問題 - Wikipedia
- 「トロッコ問題:殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ - 道徳的動物日記
- 思考実験「トロッコ問題」を全力で説明する/5人のために1人を犠牲にできるか? - 夜中に前へ
- 思考実験「トロッコ問題」の答えを全力で考える/功利主義と義務論 - 夜中に前へ
トロッコ問題は道徳の本質を考えるのに非常に適している。それがわかるのは、道徳の本質を取り違えている多くの人が、以下のような視点を持つことを見てとれるからだ。
「何がよい選択か?」
「命の価値とは?」
「許される状況や基準とは?」
「社会的正義とは?」
で、真剣に...つまり、間違えたら死ぬつもりで、真剣に考えてみれば、たいていの人は正解にたどり着けると思うんだが、どうも世の中には真剣に考えるということがさっぱりわかってない人だらけのようだ。
これはまた、「合理性の罠」でもある。
「合理の中には、そもそも人間が含まれていない」ということを、そろそろ自覚するべきなんだ。それが道徳の本質に直結しているってことがわかれば、トロッコ問題がなんの問題で、どう考えなきゃいけないかもわかるはずなんだけどなあ...。
トロッコ問題を真剣に考える場合、「社会的に正しい判断とは?」という視点よりも先に、「まず自分はどうしたい?」を考えることになる。真剣というのは、間違えた時に自分が致命傷を負うということだ。自分のことを考えないわけにはいかない。
そして、「自分がどうしたいのか」ということに、万人に共通するいわゆる【正解】なんかない。あるわけないのだ。
もし、万人に共通する正解があるのだとしたら、それに反するものは正しくないことになる。それはつまり、人間の自由を否定するものだ。
人間の自由を否定するということは、他の自由も否定され得ることになってしまい、最終的に【理想的な生き方・考え方以外を認めない】ということになってしまう。
これは人間を生きにくくする最悪の考え方だ。しかし現在、その考え方が普及してしまっている。
ある考え方が普及し一般化し「正しい」というレッテルが貼られるとどうなるのか。
それを考えてみれば、
「一面的に善に見えるものはすべて、やがて誰かを苦しめる原因になってしまう」ことがわかる。
はじめは一部の人を苦しめ、やがてすべての人苦しめ、別の社会問題を生み出していくことになる。
だから、万人に共通する正解はない。
一見「社会的に正しい」と思える結論も、巡り巡って「誰かを苦しめる」結果を生み出してしまうのだから、社会的に正しい結論は存在するように見えて、原理的に存在し得ない。
それは妄想だ。
ではその妄想は通常なんと呼ばれているのか。
正義と呼ばれ、
倫理と呼ばれ、
道徳と呼ばれている。
それらに共通しているのは、「誰にとっても正しい」という暗黙の強制だ。
この暗黙の強制の背景にあるものは何か。
それは、「誰にとっても正しいものがあるはず」という隠れた前提である。
この世に発生するすべての様相は、「この世という立場」から見ればすべて「あるのが当然」のものだ。それを「人間の側から見ている」から、善し悪しがあるように見えているだけだ。
人間は、この世の様相の中で生まれたひとつの形に過ぎない。だから、この世の様相は人間のためにあるのではない。
善がすべての人間に共通する何かだとすれば、それは人間を超越するものということになるが、それはつまりこの世の様相そのもののことだ。それゆえに、「人間が妄想する善のイデア」というものはどこにも存在しない。
トロッコ問題を考える時、多くの場合はこのイデアを探して【あるはずの正解を見つけよう】とする。そこに罠がある。
正解なんかないのだ。
だから導き出された答えにどれほど納得感があっても、それは必ずどこかで破綻する。
正義や倫理や道徳も、これとまったく同じ問題を抱えている。
【正解があるはず】という臆見(思い込み)を排除した時に、今まで見えなかったものが見えるだろう。
しかし...
実はただ一つだけ、イデアではない「万人に共通する妥当な解」が存在する。それはカントの定言命法だ。
ただし、カントの定言命法は妥当解ではあるが、それを「義務である」としたところに看過できない問題がある。カントの言っていることをもっともだと思って「これは義務なのだ」と考えると、たちまちイデア的な問題を呼んでしまう。冷静に、冷静に、冷静に考えてみれば、「人間に課せられた義務ではない」ので義務とは切り離して考えなければならない。
「定言命法」がどんなもので、何をどうすればトロッコ問題の答えを導けるのか...それは明言しない。明言しないが、絶対に外せない要素であることは保証する。
興味がある人はこのような観点も踏まえて考えてみて欲しい。きっとトロッコ問題の背景にある問題が見えてくると思う。
教養の価値について
「人生を豊かにする」というのは、「視点の豊かさを手に入れること」のように思う。
それは、経済性に囚われずに「モノゴトの多様性」に気づくことで得られる。その「多様性」は「教養」に深く関係している。*1*2
教養というのは楽しみにつながるものだ。教養が多ければ様々な楽しみ方に気付くことができるが、教養が少なければ楽しみの形が固定化してしまって閉塞感を感じるように思う。
教養が増えれば、たとえば歴史的建造物に付随する物語や時代ごとの意味を感じたり、ゲームの背景や定石から展開を予測する楽しみを感じたりできる。教養は多ければ多いほど、また、明瞭であればあるほど、明確な深さを持って楽しみを感じられるように思う。
考えてみると、楽しみとは多くの場合に「様々な多様性・可能性を感じる」ことで生まれているように思う。マンネリズムの楽しみというのもあるが、これも「次の展開が読める」という意味で、多様性のひとつを想起しているから楽しめるのではないだろうか。マンネリに飽きてしまうことがあるのは、多様性のひとつと思っていたものが、「実はひとつしかなかった(=多様ではない)」と気付くからだろう。
教養を別の言葉にすれば「過去の事物についての知見」であり、現在に当てはめてみることで多様性を認識しやすくなる効果があるのではないか。ひとつの事件・事象を見た時、過去の様々な事例や人間の振る舞いなどを想起することで、多様な未来を容易に想像することができる。
しかし教養が少なければ偏った一面的な未来しか想像できず、また、それに関わる多種多様な要因にも気付けない。そうなれば想像する未来像は固着し、多くの場合「短絡的な未来像」に囚われてしまうのではないだろうか。
このように、教養は現実認識に多様性をもたらすという重要な役割を持っているように思う。そしてそれは社会の豊かさを感じさせ、異文化コミュニケーションへの恐れや苛立ちを少なくし、イデオロギーや宗教の対立を和らげるのではないかと思う。
人間は「わからないこと」「悪い結果」を恐れて不安になる。そして不安によって攻撃性が増し、自分の意に沿うような結果になるように行動する。その行動の一番簡単なものは「喚くこと」で、いわゆるヒステリーだ。
しかしそのヒステリーも「わからないこと」が「わかること」に変わり、「悪い結果」が「悪い面ばかりではない」ことに気づけば雲散霧消する。「モノゴトの多様性に気付く」というのは、ヒステリーを起こさないための必須の要素だと思う。
教養とは、文学や絵画・音楽などの芸術、パズルや数学、歴史や言語学や哲学など、一見「実生活上の役には立たないもの」を指している。しかしそれは【経済性というモノサシ】で測っているからであり、【人生の楽しみというモノサシ】で測った時にはとても価値のあるものと感じられるだろう。もちろん世の中には通帳の残高を眺めることが楽しみという人もいるが、たいていはその残高を減らす何かの方に楽しみを見出すものだ。
教養はつまり、個人個人の世界観それ自体を経済性の呪縛から解き放ち、「人生に豊かさを感じさせるもの」だろう。
「豊かさのアンテナ」「豊かさの感覚器官」だと思ってもらえば、教養をもっとイメージしやすいかも知れない。
それは、多様な現実の認識と、多様な生き方の受容と、多様な未来の可能性の想起によって、より豊かな選択肢を見出す役にも立つものだと思う。
もちろん、知識があるだけでは教養とは呼べず、自分の世界観に組み込まれるまで身について初めて教養と呼べるものになると思う。そうでなければ使いこなすことはできない。
人生で出会う、絶対の正解がない問題に向き合った時、どうにか答えを見つけ出す道を探るための指針であり武器になるもの。
人間にとって、教養にはそういう価値があるように思う。