「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

行為に対する誠実さと自己表現の真剣さ

ある人のエントリを見た。ある絵本作家が自己紹介をする際に、絵本作家ではなく「絵描き」と名乗った話から、哲学者や教師が絵描きのように名乗るとすればなんと名乗ればいいのだろうとか書いていた。

それで思ったんだけど、そもそも「私は哲学者です」というのはどういう意味なんだろうか?


まず、絵描きも哲学者も職業名ではないだろう。
つまり、こういうことだと思う。

  • 絵本作家 ←絵を描くので絵描き
  • イラストレーター ←絵を描くので絵描き
  • 漫画家 ← 絵を描くので絵描き

全部、絵を描く職業だ。

哲学に関わるそれらしい職業で考えてみると、つまり、こんな感じかな。

・哲学研究職 ← 哲学の知識があるので哲学者
・哲学を教える非常勤講師 ← 哲学の知識があるので哲学者
哲学史を教える社会科教師 ← 哲学の知識があるので哲学者

全部、哲学に関わる職業だ。

しかし待て。
「哲学を研究する」「哲学史を教える」はたしかに哲学の知識があるだろうけど、それは哲学者と名乗る条件を満たすのか? 哲学史を教える社会科教師はそれだけで哲学者になるのか?

絵を描く知識を持っているとか、絵を描く道具を使いこなせるとか、絵の描き方を教えられるとか、それだけで絵描きとは呼ばないだろう。絵描きは絵を描く人であり、プロアマを問わないと思うので職業名を指しているのではないんだと思う。だから職業として成立していようが成立していなかろうが関係なく、【何かの条件を満たせばそう名乗ってよい】のだろう。

絵描きが絵描きと名乗れる条件はまず「自力で絵を描く」ことだろう。

絵描きと名乗ったとしても、他人の絵のコピーを自分の作品だと言っている人を絵描きとは呼ぶまい。たとえ下手だろうと、自力で描く人を指して絵描きと呼ぶのではないだろうか。だから【自力で描くこと】は条件のひとつになるだろう。*1

そうだとすれば、哲学者と名乗れる条件は哲学の知識を持っていることではなく、「自力で哲学をしている」ことになる。

哲学研究職の人が全員「オリジナルで高品質の哲学をしている」と言えるのかわからないけど、でも哲学を研究するからには丸暗記やコピペではなく自分で考えるプロセスはたぶんある。

だけど哲学史を教える社会科教師にそれはあるのだろうか。哲学史や哲学者を紹介することを指して「自力で哲学している」とは言えまい。だから哲学史を教えるだけでは、哲学者と呼ぶ条件を満たさないだろう。

「自力で哲学している」というのは、少なくとも「自力で論を構築する」ことのように思う。元々は他の哲学者の論であっても、自分で検証(批判)しながら組み上げる過程はやはり哲学をしていると呼んで差し支えないように思う。教師であれ学生であれ誰であれ、自力でそれをやる人なら条件を満たすように思う。

だけど、オリジナルのラクガキを楽しむ幼児を指して「絵描きさん」とは呼んでも、本物の絵描きだとは認識すまい。
では、たとえば高度な贋作者を本物の絵描きと呼ぶだろうか? 呼ぶかも知れない。

だとすれば、本物の絵描きと呼ぶには、オリジナリティや知名度に関わらず品質が伴っている必要があるということではないか。もしそうだとすれば哲学者も、オリジナリティや知名度に関わらず品質が伴った「哲学をしている(論を構築する)」が条件になるのではなかろうか。

教師は職業でもあるので、資格制度に合格するか、「日常的に教える行為」をしていれば教師と名乗れる気がする。だから予備校講師も家庭教師も教師と呼んで差し支えないように思う。これを絵描きのように呼ぶとすれば、その行為から「知識の伝道者」あたりになるのだろうか。哲学史を教える社会科教師はその行為から知識の伝道者とは呼べるが、自力で論を構築しようとしている場合に限ってその行為から哲学していると言えることになる。

つまり少なくとも、「その行為から」なんと呼べるかが決まるのだろう。絵描きも哲学者も教師も、行為する人の名称ということだ。

では高度な贋作者は本物の絵描きと呼ばれる条件を持つとして、贋作者にもプロとアマがあるように思う。プロは本物と区別が付けられない完璧な贋作を目指すだろうが、プロではないアマは自分の能力を発揮できることをまず目指すだろう。贋作の品質は絵のうまさではなく、いかに本物に近いかだ。下手な絵の贋作は、下手でなければならない。

では、贋作ではなくオリジナルの作品であったらなにが品質の基準になるのだろうか? オリジナリティ? 絵のうまさ?

私は「誠実さ」と「自己表現の真剣さ」ではないかと思う。誠実でなければ真剣にはなれないし、真剣でなければオリジナリティがあったとしても品質を感じさせることは難しいように思う。「誠実じゃないけど真剣だ」というのはたぶん成立しないと思う。

※たとえば、片手間で高度なことができることを追求している天才の自己表現は、単なる高度な結果物に真剣さが現れるのではなく、「いかに片手間で高度な結果を出すか」という点に真剣さが現れるのだと思う。

では、哲学における「自己表現の真剣さ」とは何であろうか?

それは行為の誠実さに現れる。少なくとも私は、それを持たない人を哲学者とは呼べない。

だから哲学者は常に、生き方の誠実さも真剣さも問われ、他者との接し方の誠実さも真剣さも問われ、問題の捉え方の誠実さも真剣さも問われる。

 哲学者は、何をするにせよすべて哲学の実践として問われる。(AならばB)

 哲学の実践を問われなくていい人は、少なくとも哲学者ではない。(非Bならば非A)
 
 
以上のことから「私は哲学者です」と言うためには、

  • 自力で論を構築しようとしており(行為)
  • 論の品質を重視しており(誠実さ)
  • それらを自己表現として大切に取り組んでいる(真剣さ)

ことが条件になるように思う。
 
 
※別の表現にすると、【知に対する誠実で真剣な実践(態度)】が哲学者の条件じゃないかなと思う。考えている最中に間違うのは仕方ないことなので間違っててもいい。間違ってたら哲学者じゃないとは言えない。社会学者でも物理学者でも医者でも経営者でもこの条件を満たすなら哲学者の一種と考えてよい。立場や金や好き嫌いのために知をないがしろにする人は哲学者ではない。【知に対する誠実さ】から逃げたり隠したり言い訳したりするのは哲学者ではない別の何かだということ。

*1:たまたまものすごく似た構図になってしまうことがあったとしても、コピーじゃなくて構図から自力で描いたのであれば、他人にはコピーに見えても絵描きなんだと思う。あらためて、似ていないもの出せば「自力で描ける」ことは証明できるわけだし。

闇の中の仕様書

世界は「仕様書のないシステム」であり、多くの学問は「システム攻略マニュアルの作成」を目指している。

しかし哲学が目指しているのはマニュアル作成ではなく、推論と検証を重ねながら実装を見抜いて作る「妥当な仕様書の作成」だ。この点は科学や数学も同じだ。ただし統計学は除く。私がそう思っているだけだが。

これは「詳細がわからないシステムのトラブルシューティング」にとても良く似ている。ああでも、今回はその話をするつもりではない。

仕様書として成り立つためには「原理」や「仕組み」として語られなければならず、こうしたらこうなるという「場合の説明・対処法」の羅列で終わってはならない。場合の説明の羅列で終わりがちなものの代表例は経済学や社会学など、そして統計学だ。もちろん私が思っているだけだが。

また、原理不明な魔法の箱を論拠にしてはならず、「誰にでも理解できる論理」によって「説明されて」いなければならない。原理不明な魔法の箱を根拠にしているものの代表例は一部の医者(医学ではない)とニセ科学、そして心理学だ。もちろん私が思っているだけだが。

といって仕様書の様式の話ではないので、語り方は他人が理解できるものならなんでもよく、語られた時に不十分でも構わない。

なぜなら「自分がわかることしか語れない」からであり、その多くは仮説に過ぎないからだ。答え合わせをするための本当の仕様書はどこにもない。

では「仕様書のないシステムの仕様書」を作るために何が欠けてはいけないか。それは以下の点だ。

  • 原理や仕組みの推察
  • 根拠か具体例の提示
  • 適用可能な範囲
  • 範囲内の普遍性を示す検証

説明のたびに全部を「明示しなくてもいい」が、「求められた時には明示できなければならない」。

これらが欠けているなら何でも言えてしまい、しかもその妥当性はなんら説明されない。これらが欠けているものは「空想」や「放言」と変わらない。

それは「僕の世界観」でしかなく、少なくとも哲学ではない。

それを哲学と呼ぶなら「おれが言ってるんだから正しいんだよ!従え!」とかいうのも哲学に含まれることになる。そんな主張も、そんな主張をする人間も、一切信用できない。