「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

愛の構造

幸せの構造自信の構造 からの続き



自分の価値を認めてくれる他人は、自分にとって嬉しい存在だ。自信の源になる。だからそれも自分と同じように大切になる。自分と同じように大切になれば、自分の分身のように感じられる。でも、それでも他人に変わりはない。そして、そいつにはそいつ自身のモノサシがある。

もしも誰かから、「お前のモノサシは間違っている」と言われたらどうだろうか。事実、独り善がりで間違っていたとしても、自分のモノサシで生きることを他人に認めて欲しいだろう。それなら、他人のモノサシも認めてやることだ。そいつの人生だ。そいつが自分の幸せを決め、自分の幸せを求めて生きて何が悪いか。自分に迷惑がかからなければ文句を言う筋合いはない。

尊重というのは、他人が自分自身のモノサシで生きることを認めることだ。
親子、兄弟、教師と生徒、上司と部下、どんな関係でも変わらない。
相手のことを思って時に強制することも悪いことではないが、最終的に決定するのは当の本人であることを忘れてはならない。

また、相手のことをよく知らずに、正しく尊重することはできない。
なにで喜び、なにで怒り、なにで悲しみ、なにで楽しむのか。
その人の喜怒哀楽を知らなければ、中途半端にしか尊重できない。
自分の場合と同じだ。
自分の求めるものを理解して幸せになれるのと同じように、他人も求めるものを理解されることが幸せの第一歩だ。人間は理解されたいのだ。だから理解してあげる。そのためにはよく知らなければならない。
正しい尊重は、相手を理解することの先にしかない。

誰かに理解され尊重されるというのは、己のモノサシを使うことを認められたということだ。
理解されてないのに「すごいね」と形だけ言われても嬉しくないだろう。
自分という存在を、価値を、認めてもらえる。
それは生きている甲斐を感じられることだ。

自分が自身の幸せを決めることで幸せになれるように、
自分が自身の価値を決めることで自信が持てるように、
その人の生き方・幸せを認め、存在を肯定する。
これ以上に愛する方法なんてない。
基本であり、最大の愛の形だ。

人間が他人を愛する時、自分と同じように愛することしかできないのだ。