「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「私」を考える

私とは、自分と外界を分ける「境界線の内側」を指す言葉だが、自分と外界とは何によって分けられているのだろうか。

皮膚によって?
そうだとすれば体内に埋め込まれたペースメーカーは、私の一部と認識されるのか。

有機的な結合によって?
そうだとすれば承諾なしで他人の組織や器官を移植されたら、すぐさま私の一部と認められるのか。

自覚によって?
これが自分なのだと認めたものの総体を私とし、それ以外を外部と感じる。たとえ正真正銘、自分の肉体であっても「違う」と感じれば自分の一部だとは感じられない。精神的にも自分と異なる人格が同居していると感じられれば、それを含めて自分だと捉えがたい。だから、自覚が境界線だと考えるのが一番納得感が高いように思える。

しかし、違う。
ここで終わりではない。まだ先がある。

この自覚は無意識的な自覚か、それとも意識的な自覚か。自覚はまったく自由にならないものか。

言い方を変えよう。

「自覚とは、自分の意志と無関係な事実によるものか」

私の答えは、無関係ではない、だ。だが、まだ考えなければその先の答えは出ない。