人が暴力をふるうのはどんなとき?

■加害者・被害者が共に暴力だと知っている場合

自分の中の満たされない穴の埋め方に「困った時」。困らなければ暴力にはならない。

暴力が常態化した場合は、満たされなさを感じると反射的に暴力に結びつく。困り度合いが「手を伸ばさなければ醤油が取れない」程度でも。

楽しみとしての暴力もあるが、これも多くの場合は「穴の埋め方を他に知らない」「手っ取り早く埋まった気になれる」ことで行動に結びついていると考えられる。

■被害者だけが暴力だと受け取っている場合

加害者側の無自覚ゆえの暴力の場合、ただ単に無自覚であることが暴力の原因なので、自覚すればやめる。これは被害者側が一方的に暴力だと申告することによっても生ずる。それがとても暴力と呼べないものだとしても。

また、双方の力の差があまりに大きい場合、強いものの何気ない所作がすべて暴力的に映る場合があり得る。たとえば巨人が歩くだけで足元の小人が死ぬ思いをするように。

果たしてこれを暴力と呼ぶべきかは、【語の用法の拡大解釈をどのように戒めるか】によって変わる。

■加害者も被害者も暴力だと思ってない場合

三者がそれは暴力だと指摘する場合もあり、これは加害者・被害者双方が暴力の自覚を持っていない。

たとえば、これが正しい教育だから嫌でもやらなければいけないと思っている親と、親の言うことだしやるのが当然だし叱られても仕方ないと思っている子供との関係に体罰がある場合、他の考え方や方法を知ることによってやまる場合がある。よく考えれば他の方法で代替できることの場合、それは暴力に「たよっている」と考えられる。

しかしたとえば、加害者・被害者の双方が第三者には理解できないルールのゲームをしている場合、どれほど暴力的に見えてもそれはゲームである場合がある。UFCなどの過激な格闘技試合は多分に暴力的だが、双方が承知して自覚的に参加しているものを指して暴力と呼ぶのは、価値観の押しつけと呼ぶ方が適切なように思う。これについても、【語の用法の拡大解釈をどのように戒めるか】によって変わる。

■考察

「暴力そのもの」と「暴力的に見えること」との違いを無視して一緒くたに捉えてしまうと、「暴力的に見えることはすべて暴力」という暴論になりそうだ。「暴力はいけない」という価値観は一度横において、それがなんであるのかを観察しながら考えてみるのがいいのだと思う。

前段で「たよっている」と表現したが、暴力的な手段にたよって「なにを成そうとしている」のだろうか。人間の行動原理を考えるときに外せないのは「目的」と「状況・条件」だ。能動的な理由と受動的な理由と言い換えてもいい。

暴力の受動的な理由は、概ね「防衛のため」だろう。
では能動的な理由はなんだろうか。それはおそらく「他者をコントロールするため」だ。

親や教師が子どもにいうことを効かせるため、自分の信じる理念や教義を認めさせるため、屈服させるためなど、すべて相手を従わせることを目的としている。相手の自由を蹂躙するために暴力をふるう。

では、他の方法はないのか。なくはない。それは対話だ。

残念ながら、対話は譲歩を求める以上のことはできない。相手が譲歩せず(できず)、こちらも引き下がれない場合、そこから先は強い者が蹂躙することになる。

しかし多くの場合、対話を十分にする前に、軽率に、そして短絡に、暴力にたよって相手を従わせる道を選んでしまうのだろう。なぜ軽率に、そして短絡になるのか。それは暴力が短絡的に「悪いもの」とされることによって、対話の技術が双方に足りない状況が続いているからではないかと思う。

短絡は短絡を呼ぶ。暴力をふるう人だけではなく、それを責める側も含めて、双方にある短絡によって暴力がふるわれる。

人が暴力をふるうのは、【ことを短絡に捉えたとき】ではないかと思う。