「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

新しい「社会人の定義」

※推敲中だけど公開する。趣旨を大きく変えることはしないけど、細部については追記・修正するかも。

社会の様々な問題を解決したいのであれば、その構成員である「社会人」の定義を見直すことから初めないと改善しない。

構成する部品に原因があるのに、原因を改善しなかったら対症療法にしかならない。社会問題の場合であれば、その構成員と仕組みの両方に原因があると考えるのが妥当だ。

仕組みの方は様々あるからそれは個別に考えるとして、構成員を改善するということはその考え方・認識を改めるということだ。構成員ひとりひとり「が」考え方を改めるということでもあるけど、その前に「よい社会の構成員とはどんなものか」という問いに新しい答えを出すということだ。

その時、安易に「べき論」を持ち出すのは思考停止そのものだ。べき論は、その根拠をたどっても最終的な説明にたどり着かない。だからべき論にならないよう、どうしてそうなのかを考えて説明付ける必要がある。

さて、では社会の構成員、つまり社会人とはどういうものか。

よくよく考えてみると社会人の定義は曖昧だ。「社会人とはどういうものか?」という問いに対して、いくつか挙がってきそうな要素を列挙するとこんな感じか。

  • 働いている
  • 納税している
  • 自立している
  • 社会の役割を果たしている

逆に「社会人に含まれないものはどういう人か?」という問いに対して、挙がってきそうな要素を列挙するとこんな感じか。

  • 未成年
  • 学生(成年も含む)
  • 無職
  • 反社会組織の人

「働いている」やそれによって「納税している」ことが社会の義務を果たしていると受け取られるようで、学生や無職などの納税していないと思われる人たちは社会人と認めらえにくいように思う。ただ、そういう人も消費税は払っており、もし「納税だけが社会人の条件」だとしたらかなり範囲は広くなるはずだ。

しかし消費税を払っているだけで社会人と認められたりしない。それはなぜか。

「その時点の社会」に対して「有益な関わり方をしていない」と多くの人に思われるからだ。納税は具体的な社会への関わり方であって、それだけが社会への関わり方ではない。納税はひとつの方法であって、関わり方はそれ以外にもあり、有益な関わり方が多いほど認められやすいのだろう。

約束を守らないとか。他人の権利を侵害するとか、有害な関わり方が多くなれば適正を疑われる。

おっと、話を進める前に、有益とその周辺を明確にしておこう。

有益という言葉は「益」の有無のうち「有」を指す。だからその反対は「無」だ。
しかし「益」の反対もある。
「益」の反対は「害」だろう。他にもあるかも知れないがここでは害のみに絞る。
そして、有益と同じように有無で表現すれば「有害」「無害」になる。

有益の反対としては無益や有害が当てはまるが、これは程度ともいえる。「有益ではない」の意味は、以下の3つが当てはまる。

  • 益するところがないが、害もない
  • 益するところがあるが、害がある
  • 益するところがなく、さらに害もある

対して「有益である」の意味は、以下の2つが当てはまる。

  • 益するところがあり、害がない
  • 益するところがあるが、害がある

別の表現をすれば有益とは、害の有無に関わらず益するところがあることだ。

先ほど示した「他者への有益な関わり方」の有益とは、「他者の喜びや快適さ」につながることを指している。だから社会がうまく機能しやすい社会人の定義は、労働とか納税の義務とかではなく、「他者の喜びや快適さに貢献している人」になるだろう。

配慮ではなく貢献。

なぜなら、ここで重要なのは身近な人たちを喜ばせたり快適にさせることではなく、どちらかと言えば「直接関係のない人の喜びや快適さに貢献すること」だ。身近な人を別の表現にすれば、身内とか仲間内のことだ。身内や仲間内に優しくするのは当然のことで、そればかりしていれば縁遠い人にはむしろ不快な存在になる。

他者への配慮と言った場合、それが有益か無益かはあまり問われず、気遣いをしていることをもって「配慮した」と言うことができる。しかし配慮があっても実益がなければなんの意味もない。身内でも仲間でもないのだ。

もっとわかりやすい言い方をすれば、

「言葉の配慮はいらない」

ということだ。必要なのは実益。実質的な利益。だから配慮ではなく貢献でなければならない。

「自分勝手に配慮したつもりになる」ことでは、自然に喜ぶことも快適だと感じることもできない。そんな空虚な善行は、仲間内以外では善行として機能しない。

そしてまた「善行の反作用」として害を被る人を、最小限にすることも含まれる。独りよがりの善行によって、かえって害を受ける人もいる。その人達は「安易な道徳観」の押し付けでは納得できないだろう。

実質的に彼らの損害を最小にする努力もまた、善行の一部のはずだ。なぜなら彼らも社会の構成員だからだ。

多様性だのなんだの言われているが、身内や仲間内以外、つまり自分と正反対の価値観を持ついわゆる敵対的な立場の人たちに対しても、妥当な貢献をしなければ社会は安定して成立しない。

むしろ敵対する立場の人とこそ、「社会の安定についてお互いに協力できる道を検討し合えるような関わり方」ができる必要がある。

その時に礼儀やマナーは強力なサポートツールになるし、「その尺度としての道徳*1」であれば押し付ける意味もなくなる。

そういう感じに社会人を定義し直すことで、新しい定義の社会人に適合しようとする人が増え、少しだけ社会が安定する方に向かうように思う。

他者への貢献とか社会への貢献は、「一方の道徳観を持ち出して我慢を強いる」ことでは成立しない。聞く耳を持たずに「悪いこと」とレッテル貼りをすることではないのだ。価値観が違ったり強い欲望を持つ人たちの不満を解消する道を、共に考えることでしか成立しない。

しかし、どうあっても他者のことなどどうでもよいという人もいるだろう。話し合いがまったくできないとか、譲れそうなことを探したくないとか、立場が違う人たちと共存する気がないとか、そういう人もいるかも知れない。だから究極的には「自分の不満ばかりを優先し、他者や社会への貢献を一切するつもりがない人」は社会から排除することになるだろう。

それは仕方がない。

ただしそのかわり、社会の価値観として「限界まで共存の道を諦めない姿勢」が必要だろう。この価値観を共有できさえすれば、「この価値観を土台にした対話」は可能なはずだ。最終的に道を違えることになるとしても、十分に対話することができれば「ただのわからず屋」ではなくなるかも知れない。

他者への貢献の仕方や考え方については一時的に紛糾すると思うけど、それによって「対話する環境」が一般的になるんじゃないかと思う。そうなっていけば、自分の価値観を絶対に変えずに「丁寧な口調で強弁する」ことを対話だと勘違いしているような人たちも、少しは変わるんじゃないかと思う。

*1:「社会の安定についてお互いに協力できる道を検討し合う意志」の表れとしての、「態度・言動が判別できる手続きのパターン集」