「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

ルールとは何か

世の中には至る所にルールがあって、「守らなければならないもの」として定められている。だいたいは、誰かが明確に決めたものだ。まあ、暗黙のルールなんてのもあるけど。
ルールと混同されてしまいやすいものに「推奨」というものもある。「いけないわけじゃないけど、した方がいいよ」というものだ。でも推奨のはずなのに、「なんでそうしないの?」という圧力を向けられることもあったりして、強制なのか強制じゃないのかいまいち不明確だったりする。
それから「戦術」とか「手法」「テクニック」と呼ばれるものもある。使っても使わなくてもいいけど「使うならこうしないと」みたいな決まりがあったりする。これはルールなんだろうか、それともルールじゃないんだろうか?
さて、ルールと呼ばれるものは、一体何なのだろうか?

ルールとは目標に到達するためのレール

何かを行おうとする時、おぼろげでもなんでもゴールをイメージする。仕事であれ遊びであれ、どうなればいいのかとか、どうなれば勝てるのかとか、目標を設定しないと何のためにやってるのかわからない。わからないというのは「不明確」ということだ。これを明確にしないと結果をコントロールすることができない。
イメージする結果から遠ざかるような行為を禁止しておいた方が、たどり着きやすくなる。そのための決め事がルールと呼ばれている。言わば、目標にたどり着くためのレールのようなものだ。行き先がわからないレールって、なんのためにあるのかわかんないよね。
だから、目標が不明確であれば、そこで決められるルールの意義は自動的に不明確になる。

ルールとは線引きのひとつで禁止だけじゃない

また、禁止だけでは不十分であり、強制力の段階によって、禁止事項・推奨行為・選択的手段が不可欠である。これらを別の言葉で表現すると、禁止事項は「法」や「戒律」に換言でき、推奨行為は「道徳」に換言でき、選択的手段は「戦術」か「テクニック」に換言できる。
禁止事項・推奨行為・選択的手段は、そのまま強制力の強さの順だ。強いルール・弱いルールと言い換えてもいいだろう。
ところが、禁止よりも強制力が弱いはずの推奨行為や選択的手段の中には、それを成立させるための禁止事項が生まれる。これはつまり「推奨行為の目標に到達するためのルール」が必要になるからだ。このようにルールの中にルールがあって入れ子構造のようになっているので、【ルール=禁止事項】のように見えてしまう。ある人にとってルールが理解しにくかったりするのは、この禁止・推奨・手段がごちゃ混ぜで、それぞれの「中のルール」が別のルールの禁止事項であるかのように扱われてしまうことが原因のように思う。

ルールの変化

ルールは状況によって改正した方が当然良い。禁止することで自由度が失われるが、その効果として無駄や混乱が抑制されゴールにたどり着きやすくなる。それは、できることの幅が狭まることによるメリットだ。ルール設定時には思いもつかなかった道が見えてきた時、その道を認めるのか、逆に明示的に禁止するのか、選択が必要になる時がある。このような場合にルールは改正される。目標に到達しやすくするために定めるものがルールの役割なんだから。
たとえばスポーツのルール。概ね勝ち負けを争うもので、その中のゲーム性が高くなればなるほど楽しみの幅が広がる。あまり自由度がなければ単純な力の勝負になってしまい、力関係が膠着し、面白さが頭打ちになる。そういう時に選手の活躍の幅を広げるルール改正があると、膠着した力関係が崩れて新しいゲーム展開が生まれる。
たとえばビジネスのルール。業界のシェアを競争したり、品質の競争をしたり、あるいは協業や別の販路を開拓したり、できることは様々あるが、もちろん「不正として禁止」されることも多い。その中で覇者が決まると中々覆せない状態になり、膠着した状態が生まれる。そういう時に禁止事項が緩和されると、膠着した力関係が崩れて経済が活性化する。
スポーツにしろビジネスにしろ、膠着した状態が見えてきたら適宜ルール改正した方が良い。これを換言すると「システムのバージョンアップ」と表現できるだろう。

ルールとは何か

つまりルールとは【目標に到達するためのシステム】だ。目標への到達を目指さないシステムって基本的にないと思うけど。
その内訳は、禁止・推奨・手段で構成される。強いルールと弱いルールのどちらもルールだ。