「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「尊重する」とはどういうことか?

「尊重する」ということについて考えてみました。

他者に対して「客観的に正しい」ということを主張したくなったら

まず、それがどんなに正しく見えようと、「自分が勝手に正しいと考えただけだ」ということを思い出した方が良いです。

「他者の的外れを批判しようとする自分の方が、実は的外れな考えを持っている可能性」を考えてみてください。「そうではない、実際に自分の考えの方が正しいのだ」と言いたいがために、論理や事例や有名な人の説を持ち出して補強しようとしても、たいていの場合にそれらは正しいと保証されていません。

自身の主張が正しいという前提を疑わない態度(スタンス、立ち位置)は、どれだけ誠実に振る舞おうとしても正しさ勝負につながっていくと私は思っています。そして、仮に正しさ勝負に勝ったとしても、その場の優越感を味わえる以上に得られることはないばかりか、その人間関係において相手からの尊敬を確実に失うことになります。

論理的正しさは、他者を納得させる絶対的な説得力にはならない

そもそも「客観的に(誰にとっても)正しい」ということはあるのでしょうか?
それは絶対に正しいのでしょうか?

これについて、私は以下のように考えています。

  • 論理的な正しさは必ずしも実際の正しさを保証しないし、妥当性も伴いません。単に論理的に正しいように表現することができるだけ。
  • だから、「この論理は妥当である」と判断するのは、妥当だと思う人が勝手にすることであって、万人に共通する絶対的根拠にはならない。

この私の考えが正しいかどうかは問題ではなく、そう考えることができる以上はそう考える人が存在するので、【論理的正しさは、他者を納得させる絶対的な説得力にはならない】のです。

論理を根拠にした「客観的に正しい」は、知的な仮面を付けた暴力

今の話を別の言葉で表現すると、「論理は絶対的な正当性を保証しないという価値観」ということになります。

そしてこれは、他者(自分以外の人)が持っていておかしくない価値観です。だから、「論理的に正しいから客観的に正しいのだ」と主張することは、この価値観の否定につながるために、感情的な対立が生まれやすくなります。

私は、「論理的に正しい」という不正確なものを根拠にして、対話の中で「客観的に正しい」ことを押し付けることを、【知的な仮面を付けた暴力】だと思っています。なぜ暴力かというと、これが他者の自由を侵害する(支配しようとする)行為だからです。

自分のエリアで主張するのはもちろん自由です。だけど、そんなのは他者との対話の場でしつこくやる必要がないわけです。他者に認めて欲しいとか優劣を競いたいとかであればしつこくやりたいでしょうけど、そうでなければ「私はこう思う」と述べたら終わりで、それ以上する必要はないでしょう。

仮に「客観的に正しい」ということがあったとして、「私はそう思う」以上のことを主張しても相手を説得する力にはなりません。相手が納得するかどうかは、相手が決めることだからです。

まとめ

この文章で言いたいことを簡単にまとめるとこうなります。

これは問題ない→ 【自分が「勝手に」正しいと思う】
これは問題ある→ 【自分が正しいと思うことを相手に押し付けて、相手の「勝手に」を変えさせようとする】

人には「自分の勝手に」する自由があります。
だから、他者にも「自分の勝手に」する自由があります。

私はこの「他者が自分の勝手にする自由」を守ることが、「尊重する」ということだと考えています。