「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「生き方」からこそ自尊心は生まれる

成人したばかりの頃、現実を生きるということがどういうことなのかまだ知らなかった。

今の私は、現実を生きるということがどういうことかを知っている。期待したほどうまくいかないし、病気もするし、誤解もされる。ちょっとしたいいことは長続きしないし、ちょっとした悪いことも長続きはしない。そして、少しずつ積み重ねたものは、良いことでも悪いことでも強い影響力を持つ。

人間にとっての「生きる」はとても複雑で広大だ。他者との関わり方もとても複雑で広大だ。生きることも、他者と関わることも、考えることも、そして「自分を作る」ということも、どれも一筋縄ではいかない。

こういったことは、本を読んで考えただけではわからない。それは必ず足りない。それは必ず間違っている。

たとえば、小さな世界で、少ない経験で、何かがわかった気になることがある。

「わかった」と思うことは、実はかなり安易だ。

なぜなら、小さな世界、少ない経験だからこそわかった気になれるのであって、広大な世界や整理もできない大量かつ複雑な経験を踏まえたら、わかったなどと言えるわけがないからだ。

また、人は他者の何もわからない。

いや、少しくらいはわかることもあると思うだろう。だがそれは「私から見えた何か」に過ぎず、氷山の一角がたまたまトマトにそっくりだったからそれをトマトだと断ずることと何も変わらない。

だからこそ、人は他者と対話する道を捨ててはいけない。

わかろうとすることを放棄するのであれば、たとえそれが極々一部のことに限ったつもりであろうとも、他のことでは絶対に放棄しないと誓おうとも、必ず思考の綻びに繋がる。必ずだ。

なぜなら、自分の生き方として「わかろうとしなくていい」場合を自分の中に持ってしまったからだ。自分の生きる世界を、自分から狭く小さいものにしてしまったからだ。

なんでもそうだが、今この時は、それが将来の何に繋がっているのかわからない。たいていのことは、予想もしないことに繋がっている。

20年も経ってようやく、あの時のあれが今に繋がっているとわかることがある。というかそんなことばかりだ。きっとこの先もまた予想外のことに繋がっていると思い知るのだろう。

「自分の人生にも他者の人生にも同じように敬意を払う」という決めごとは、自分の中に矜持を生み、人生を豊かで満たされたものに育てていく。

逆に、敬意を払わないことを選んだ人は、そのことで生まれる苦しみに長い間囚われることになる。わからなくていいことを増やしてしまった人は、そして自分の世界を狭く小さいものにしてしまった人は、その苦しみが自分の生き方のどこから来ているのかさえ気づかない。

その人の生き方は、その人が決めてよいのだ。道の途中かも知れない。迷いの中で苦しんでいるのかも知れない。明日には真逆の意見を持つようになるのかも知れない。人は私の都合では変わらない。しかし、人はその人の都合で変わることができる。今見えるその人の「それ」は、その人のすべてではない。

他者の生き方の良し悪しを断ずることができるほど、他者のことがわかったと言えるようには、人間は誰ひとりとしてなれない。

わかろうとすることを放棄せず広い世界を恐れない矜持と、他者の生き方への敬意は、自尊心を生む。自分の生き方に矜持を持ちたいのであれば、他者の生き方に敬意を払わなければならない。

いつであれ、どこであれ、誰に対してであれ。

矜持と敬意は自尊心そのものだ。
矜持と敬意を持った「生き方」からしか、自尊心は生まれない。