「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

日常的に哲学を実践しているなら

誰に対してかは明言しないけど、レベル低い。

また、これも誰に対してかは明言しないけど、素晴らしい、しびれる、憧れる。

さて、上記の言葉に対してどんな受け取り方をするかは人によって様々だろう。「レベルが低いというのは自分のことか!」と怒る人もいるだろうし、「自分のことではない誰かのことだな」と思えば怒らないだろうし、褒められたと喜ぶ人もいるだろうし、誰かすごい人がいるんだなと思えば喜ばないだろうし。

しかし上記の言葉では誰に対するコメントなのかはまったくわからない。実際のところ、発言者である私は誰も想定せずに、単にこの話の導入として対比しやすい例示をしただけだし。

冒頭の2つの発言でわかることは、

・誰かの全人格、あるいは誰かのある点に対して
・何かの基準で評価している

ということだけだ。具体的に誰の何についてのことかはこの発言だけではわからないし、どんな基準なのかもわからない。

もしかしたら「いや、それは私に対してだろう? 言い訳するなよ!」と思う人がいるかも知れないが、それはそいつが発言者に未確認のまま勝手に解釈しているだけのことで、発言から推測可能だとしてもそうだと断言できる確実な根拠などない。

このような根拠のない想像のみの意見を憶見*1という。

憶見を根拠に論じられるものは、どれだけ熱弁しようともあやふやだ。そもそもの出発点が無根拠なんだから当然だろう。

ところで哲学というのはこのあいまいさを嫌う。よくわからないものをよくわからない根拠で語ったところで何も判然としないからだ。それでは「何かがわかった」ことにはなりようもない。哲学の分野に現象学というのがあるけど、現象学はこの点で顕著で、断定できないことは断定せずに一旦保留するという方法を使う。

言い方を変えると、現象学を実践している人にとっては憶見を排除することは日常的なことなので、「そうだと受け取れる可能性があるとしても未確認」のことについて断定しないので、簡単に怒ったり喜んだりしなくなる。だってわかんないんだもん。

これが「確認できて」「事実その通りで」「その他の可能性も排除できた」なら、怒ったり喜んだりすることになんら抵抗を感じないだろう。しかし未確認であったり、その他の可能性が排除できない時には判断を保留せざるを得ない。判断を保留するんだから、怒るも喜ぶもない。そういう情報を得たというだけだ。

日常的に憶見でモノゴトを見ている人はその特徴として怒りやすく喜びやすく、憶測で思考を進めることが多くなる。

そんな風に日常的に憶見でモノゴトを見ている人が「現象学をたまに実践する」というのは、練習を積み重ねていない野球選手が4割打っちゃうくらいありえないことだと私は思う。現象学や野球に限らず、継続的な練習は必要だと思うよ、うん。

だから、よく確認する前に怒ったり、安易に喜んだり、憶測で断定を重ねちゃう人がいたら、
たとえそれがごく小さなことであれ、
たまたまの1回だけであれ、
日常的に哲学を実践していないし、いきなり実践しようと思ってもできない人だ。
この点は断定して良い。*2
 
 

*1:「おっけん」。根拠がよくわからないまま自分がそうだと信じてること。思い込みの意見。僕理論。

*2:現象学に限らない。