「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

性格とはなにか

もしも「性格はうまれつきのもの」「性格は変わらないもの」とするなら、そして「邪悪な性格」と判断される人がいるとするなら、その人はどれほど苦しんでもがいても、努力で性格を変えることはできないということになる。

他者から「邪悪」という評価を受け、当人も「自分は邪悪である」と認める時、邪悪で居続けることに納得できるのであればいいだろう。しかしもしも邪悪でいたくないとしたら...。性格がうまれつきで変わらないものであるなら、その人は自分を憎む以外に選択肢がなくなってしまうだろう。人間はそんなに救いのない生き物なのだろうか。

「表面ではない、根っこの(本質的な)性格」というものがあるとしたら、それに善し悪しはあるのだろうか?

活発に動き回るのが好きとか、静かに読書するのが好きとか、おそらくそういうものが人の本質と呼ばれるものだと思う。しかしそれは、性格というより個人の嗜好と呼んだ方がしっくりくる。「○○が好きな性格」という表現がされることもあるので、「嗜好も性格の一部」と受け取られる場合があるようだが、それは意味の混乱ではないかと思う。

また、勤勉であったり怠惰であったりすることも性格と受け取られるようだが、勤勉だった人が怠惰になったり、怠惰だった人が勤勉になることもある。これは単に行動パターンが変わったというだけではないか。つまり、性格と呼ばれているけれども、それらは単にパターン化された行動に名前を付けただけではないだろうか。

性格とは、性質・性癖・性向によって生まれる「やりやすい行動」が習慣化し、それに注目した他人が行動パターンに名前を付けて型にはめたものではないのか。

そう思う理由は、ある行動の傾向が目立って見えた時、そのパターンで捉えて「そういう性格の人」という判断をするけれど、見る人あるいは場合によって評価が変わり、「その人の違った一面」などと見られるからだ。性格が「その人の変わらぬ何かを表すもの」だとするなら、なぜ見る人や場合によって変わってしまうのか。

見る人、判断する人は、自分であったり他人であったりするけど、いずれにせよ「ある一面」を見て、そのような性格だというレッテルを貼っているに過ぎないのではないか。そしてレッテル貼りは、つまり決めつけることであり、「この人はこういう性格だ、そうに決まってる」という決めつけで生まれるのものではないかと思う。

さて、では誰が見て、誰が判断するのか。神が見て、神が判断している? いや、そうではあるまい。自分であり、他者であり、それぞれが思い思いにレッテルを貼っているだけのことだ。たまたま意見が一致すれば「やっぱりそうだ」という思いを強め、意見が一致しない場合には、「いやあ、私はそうは思わないなあ」などというのだ。結局、何か明確な基準や根拠が示されるわけでもなく、「自分はこう見る」という主張に過ぎない。

考えてみれば、ある一面やひとつの行動を捉えて、その人の全体を評価・説明するというのは、とても短絡的なことと言う他ない。まさにレッテル貼りだ。しかし、性格の話になると、人はそういうレッテル貼りを当たり前のこととして行っている。少なくとも私にはそう見える。
つまり性格とは、「当たり前を疑わない態度が生み出すレッテル貼り」だということだ。

性格は変えられる。
その気があれば誰でも、いつでも。


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