「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

人と社会の幸せ

1.人間には特別の価値があるか

すべての人にとって特別に価値ある生命とは自分の生命のみであって、自分以外を特別視しない。
現代社会では金科玉条のごとく特別の価値があるとされているが、実際には無い。
「人間の生命は等しく無価値であり、その意味で対等である。」
これはまた、逆も成り立つ。
「人間の生命は等しく有価値であり、その意味で対等である。」
どちらも成り立ち、どちらも証明できない。これは神の存在証明と同じことである。
ただ自分が決めているだけのことで、先天的な価値も万人に共通する価値も、そもそも無い。

2.他人の命を大切にすべきか

大切にしたければ大切にすればよく、大前提とすべき義務は無い。
たとえば、日中に日陰の無い場所で、自分以外の人にそれぞれ一日分の水を与えられたとする。水がないままでは死ぬとしたら、自分だけ与えられないのは不公平だと言うだろう。
では逆に、同じ状況で、自分だけに一日分の水を与えられたとする。他の人は一口でいいから水を飲ませてくれと言うだろう。水を渡せば順繰り回ってその分減るが、一口ではどうせ死んでしまうので、おそらく誰かが持ったままになるだろう。戻って来なければ自分が死ぬ。
それでも他人の生命を大切にするだろうか。
反論として、愛する人のために譲る場合が考えられるが、それは愛する人が「自分の延長」だからである。

3.他者(障害者、犯罪者、敵)は無価値、あるいは害悪か

他人の生命に特別の価値がない以上、そもそも無価値である。しかし害悪かどうかは判断する者の基準によって変わる。
人は幸せになることを求め、幸せを奪われることを厭う。幸せをくれる相手には好意を示し大切にすべき価値を見出すが、幸せを奪う相手には敵意を持ち価値を貶める。人にとって幸せをもたらすものが善であり、幸せを奪うものが悪である。
何かを害悪であると断ずるのは、それがその人にとって、幸せを奪うものだからである。

4.現代社会の病理

人の原理がそうであれば、人の価値は先天的にあるのではなく、また理念に拠って決まるのでもなく、「個々人の幸せとの関係性」によって決まる。そのため「他者の存在が個々人の幸せの獲得に関係する」という社会通念が無い限り、人の存在自体が価値を持つことはない。
言い換えれば、幸せや生き方に関する社会通念の成熟度合いに応じて、実質的な他者の存在価値が変化すると考えられる。社会通念とは価値観(世界観)であり、独りよがりの夢想や実態とかけ離れた理想論ばかりであれば、他者の存在を容認する社会通念が成熟することはない。
社会の中には様々な価値観が溢れているが、知る限りは理念から始まる価値観ばかりであり、人の原理から始まる価値観を見ることは無い。人の原理から始まる価値観とは、「人はこうあるべき」をすべて捨て去り、人間を直視することによってしか得られない。
現代社会は理念から始まる価値観を無批判に信奉し、人間を直視する態度は軽視されている。あるいは、「何かの理念を人間を直視しているものと誤解」しており、根本的なところで社会通念が成熟しない構造を持っている。

5.他者の存在を容認しない社会通念

民主主義、人権思想、道徳、平等、公平など、現代の社会通念は理想論を出発点としており、理想論の暗部を直視しない。
この「理想論の暗部を直視・批判してはいけない」という社会通念こそが、他者の存在を容認しない態度を生み出している。