「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

教養の価値について

「人生を豊かにする」というのは、「視点の豊かさを手に入れること」のように思う。
それは、経済性に囚われずに「モノゴトの多様性」に気づくことで得られる。その「多様性」は「教養」に深く関係している。*1*2
 
教養というのは楽しみにつながるものだ。教養が多ければ様々な楽しみ方に気付くことができるが、教養が少なければ楽しみの形が固定化してしまって閉塞感を感じるように思う。

教養が増えれば、たとえば歴史的建造物に付随する物語や時代ごとの意味を感じたり、ゲームの背景や定石から展開を予測する楽しみを感じたりできる。教養は多ければ多いほど、また、明瞭であればあるほど、明確な深さを持って楽しみを感じられるように思う。

考えてみると、楽しみとは多くの場合に「様々な多様性・可能性を感じる」ことで生まれているように思う。マンネリズムの楽しみというのもあるが、これも「次の展開が読める」という意味で、多様性のひとつを想起しているから楽しめるのではないだろうか。マンネリに飽きてしまうことがあるのは、多様性のひとつと思っていたものが、「実はひとつしかなかった(=多様ではない)」と気付くからだろう。

教養を別の言葉にすれば「過去の事物についての知見」であり、現在に当てはめてみることで多様性を認識しやすくなる効果があるのではないか。ひとつの事件・事象を見た時、過去の様々な事例や人間の振る舞いなどを想起することで、多様な未来を容易に想像することができる。

しかし教養が少なければ偏った一面的な未来しか想像できず、また、それに関わる多種多様な要因にも気付けない。そうなれば想像する未来像は固着し、多くの場合「短絡的な未来像」に囚われてしまうのではないだろうか。

このように、教養は現実認識に多様性をもたらすという重要な役割を持っているように思う。そしてそれは社会の豊かさを感じさせ、異文化コミュニケーションへの恐れや苛立ちを少なくし、イデオロギーや宗教の対立を和らげるのではないかと思う。

人間は「わからないこと」「悪い結果」を恐れて不安になる。そして不安によって攻撃性が増し、自分の意に沿うような結果になるように行動する。その行動の一番簡単なものは「喚くこと」で、いわゆるヒステリーだ。

しかしそのヒステリーも「わからないこと」が「わかること」に変わり、「悪い結果」が「悪い面ばかりではない」ことに気づけば雲散霧消する。「モノゴトの多様性に気付く」というのは、ヒステリーを起こさないための必須の要素だと思う。

教養とは、文学や絵画・音楽などの芸術、パズルや数学、歴史や言語学や哲学など、一見「実生活上の役には立たないもの」を指している。しかしそれは【経済性というモノサシ】で測っているからであり、【人生の楽しみというモノサシ】で測った時にはとても価値のあるものと感じられるだろう。もちろん世の中には通帳の残高を眺めることが楽しみという人もいるが、たいていはその残高を減らす何かの方に楽しみを見出すものだ。

教養はつまり、個人個人の世界観それ自体を経済性の呪縛から解き放ち、「人生に豊かさを感じさせるもの」だろう。

「豊かさのアンテナ」「豊かさの感覚器官」だと思ってもらえば、教養をもっとイメージしやすいかも知れない。

それは、多様な現実の認識と、多様な生き方の受容と、多様な未来の可能性の想起によって、より豊かな選択肢を見出す役にも立つものだと思う。

もちろん、知識があるだけでは教養とは呼べず、自分の世界観に組み込まれるまで身について初めて教養と呼べるものになると思う。そうでなければ使いこなすことはできない。

人生で出会う、絶対の正解がない問題に向き合った時、どうにか答えを見つけ出す道を探るための指針であり武器になるもの。

人間にとって、教養にはそういう価値があるように思う。 
 

*1:※ここで言う経済性とは、損した得したという観点を指している。あるいは、絶対的な正しさ(失敗したくない)という価値観を指す。

*2:※本文章は、多様性を【絶対的な良いもの】と前提していません。