「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

生きるための哲学相談

「その人が無自覚に前提していることを見抜く」のは哲学の得意とするところで、突拍子もない理屈だろうと矛盾だらけの理屈だろうと、それらを読み解くための質問はできる。しかしこれは、哲学の知識に依るものではなく、実践経験に依るところが大きい。哲学を実践していたらできるようになるし、実践していなかったら知識的に詳しくてもできない。*1

私は哲学相談をやっている人たちの哲学相談の定義を知らない。だからその人たちの定義とはおそらく違うと思うが、私は以下のような要素が必要だと考えている。

  • 助言者
    • 「哲学的視点や手法での読解」に導くように質問する
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みた回答を実演する
  • 相談者
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みながら助言者に回答する
    • 「哲学的視点や手法での読解」を試みながら助言者に質問する


哲学相談をひと言で表現するとしたら、「哲学的視点や手法での読解」が明確に意識された協同探求だ。そうでないものを、私は哲学相談とは呼びにくい。もしも助言者の知識の開陳や、助言者の知識による判断に終止するものを指すのだとすれば、それはレッスンとかレクチャーと呼ぶのが妥当だろうと思う。

わからないことを相談しているのだから相談ではあると思うし、助言者に期待するものが哲学の知識であれば哲学相談と呼べそうではある。しかしそれでは「哲学の知識こそ哲学だ」と言っているようなものだ。もしそうだとすれば、哲学書を丸暗記した人は哲学をしているということになるだろう。

だから、過去の哲学者たちはみんな丸暗記で哲学者になったのだ。

…いや、そうではあるまい。誰かの知識を丸暗記で覚えたのではなく、ひとつひとつの問題に向き合い、疑い、つぶさに観察し、新しい概念を生み出し、仮説を立て、分析し、推論を重ねたのだと思う。

そもそも人間のすべての問題が既存の哲学書で解明されているわけではないのだから、問題をつぶさに読み解かずに既存の概念を当てはめることは「知識でレッテルを貼る」ことに他ならず、最も忌避されるべきことだろうと思う。そして、つぶさに読み解く過程では、「もっともらしそうな概念が最も警戒すべきもの」だろうと思う。読み解く過程ではバイアスにしかならないからだ。

既存の知識にあてはめられたら楽だ。
それ以上、考えなくていい。
すぐにわかった気になれたら気持ちがいい。
だから、当てはまりそうなものを探す。

いやいや、それは哲学じゃないだろう。よく観察もせずに決めつけたら哲学とは呼べない。

そこにあるものをそのまま見る。しかし既存の知識が邪魔をする。その前提を取り払い取り払い、そのままを見ようとする。なぜなのか、どうしたらいいのか、もっとうまい解釈の仕方はないのか、どうしたらより前向きに生きる力を生み出せるのか。

個人のための哲学は、生きる力を目指さなければおかしいのだ。

私は、哲学相談の助言者にとっての相談者は「哲学的な研究対象」であって、相談者にとっての相談者自身を「哲学的な研究対象」にしていくものでなければおかしいように思うのだ。そうであれば、個人の諸問題に対しても哲学的に向き合い、解明しようとするのでなければおかしい。そしてそれは助言者が行って答えを教えてあげるのではなく、「相談者が独力で行える」ように仕向けなければ相談者にとっては何の解決にもならないように思うのだ。

相談者が生きる力を生み出す術を手に入れる、それが哲学相談の目指すゴールじゃないかと思う。

*1:できないというか、知識のバイアスで別の問題にすり替えてしまいがちだ。