「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「心が自然に感じたこと」こそ迷いの原因

「心が自然に感じたことを大事にしたい」ってなことを言う人がいる。

なぜ「自然に」感じたのか。
その「自然」はただの「思考の習慣」と何が違うのか。
その習慣が間違っていた時、「自然に感じたそれ」はじぶんにとって正しい答えなのか。

「心が自然に感じたことを素直に受け止めて」なんて言葉は、いかにも優しげで気持ちが楽になる気がする。もちろん心は間違っていないかも知れない。じぶんが嫌だと感じたこと、嬉しいと感じたこと、それは事実だろう。事実を否定するのはよろしくない。

だけど「感じた」という事実と「感じた内容が正しい」とは別のことだ。感じた内容が間違った考え方に基づいてたとしたら、その感じたことは正しいと言えるのか。

朝顔の観察日記を書くなら、

3日目 芽が出た
4日目 昨日より大きくなった
5日目 昨日より大きくなった
6日目 つるが伸びてきた

ってのでもいいだろうけど、じぶんを観察するとかじぶんをよく知るってことなら、「見る」ってのは第一段階に過ぎないだろう。それで終わりじゃないじゃん。

まず見る。さらに見る。細部を見る。変化を見る。影響を見る。見る。見る。見る。

それから考えを巡らす。
なぜそう感じたのか、なぜ変化したのか、それで良かったのか、どうなればもっと良かったのか。

「心が自然に感じたそれ」は、じぶんの反応でしかない。
「自分がそう感じたんだ」って認めることはいいさ。
それはそれで嘘でも間違いでもないだろう。

でもそれは妥当な反応だったのか、じぶんの中の他の考えとは矛盾しないのか、じぶんはそう感じる人間でいたいのか、そもそも適切な考え方をしているのか、そういう分析をしなければ反応の中身がわからない。わからないものを「心が感じたことだから正しい」と無批判に考えることは自己正当化でしかない。だって無条件に「じぶんは正しい」ってとこからスタートしてんじゃん。

心に任せてしまったら、そんなの好き嫌いでしかないじゃん。
それって正しいとか間違ってるとかとは別次元の話でしょ。
心が自然に感じたことに従ったのにうまくいかない...とか当然だろう。

じぶんの心にこそ迷いの原因がある。