「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

命は大切か-安直で短絡思考で人の幸せをうらやむ人たちに宛てて

命の大切さを説く前に、生きることの楽しさを説くべきです。命の大切さを訴えたいなら、「生きることの楽しさを実感したい」「実感しようよ」と、人(子どもたち)がそう思う方向に導かなければいけません。自分が生に意味を見出していないのに、他人の生に意味を見出せるわけがあろうはずがないからです。大人が為すべきは、自分が妄信している「命の大切さ」を押しつけることではありません。

命は「誰にとっても無条件に大切」なのではありません。もしそう思いたい人がいるなら、どうぞご自由していただければいいですが、でも実際にはそうではありません。

人間には意思があり、感情があります。人間は主体的な生き物であり、主観的な生き物です。私は「無条件に大切なものなど存在しない」と思っていますが、それは「主観的価値観で大切だと思えるものが大切」だと思うからです。主観的に無価値であれば、その人にとっては誰がなんと言おうと無価値としか感じられません。

ショッキングな殺人事件が話題になるたびに、「命の大切さ」を押しつけようとする意見がまことしやかに出てきます。安直な命の大切さを押しつける意見が聞こえてきます。でも、どんなに普遍的に見えようと、命の大切さ云々というのは普遍的なものではなく、本当はまったくの主観的なものだということをそろそろ理解しなければいけないと思います。そうでなければ、命や存在の軽さを目の当たりにして悩んでいる人たちが解放されることはないでしょう。事実を見ずに、効果的な問題解決はできません。

人間は基本的に自分が大切です。それを世の大人たちは否定しようとします。利己的な生き方を否定しようとします。でも、それは嘘っぱちです。

私は、他者のために何かをしたり思い遣ることを否定しません。それは、自分が良かれと思うことをするのは、そもそも他者のためではないからです。自分がやりたいからやるのです。周囲に気を遣って善行を為すのは偽善です。偽善が悪いとはいいませんが、それは無言の脅迫に似ています。私はそれが正しい世の中だとは思いません。まず自分ありきで生きるのが正しいと思っています。

しかし、利己的というだけで頭ごなしに否定すれば、自分の生を否定するようになります。「自分のために生きてはいけないのか」と。*1
自分の生に価値を見出せなくなれば、他者の生にも価値を見出せなくなります。自分を愛せなければ、他者も愛せません。それはとても苦しい。だから、自分の生や感情を否定させる導き方は間違っているのです。

「生きていたい。」

自分が自然にそう思えるのが当たり前であって、そう思える根拠を持てない人はとても不幸です。とても苦しいでしょう。寄りかかるところがない。人間は、感情を正しく発露させなければ苦しくなるものです。私は、そんな苦しい人生に導こうとする、愚かで邪な意見をこそ否定します。

命は大切か? 大切ですよもちろん。生きる目的を持っていればいるほど。人生が充実していればいるほど。命はだから、「自分にとって生きる意味を感じ、目的に向かって進むために大切」なのです。

だから、結果的に人(子どもたち)の幸せを奪う短絡思考からは、いい加減卒業した方がよい。そして、自分の生き方を見つめ直した方がよい。私たちは幸せになるために生きているのだ。

だから、頭は生きているうちに使え。

*1:「自分のため だけ に生きる」という意味ではありません。