「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

考えるということ

考えるとはどういうことか。
少なくとも「思いつき」とか「考えたふり」のことではない。
ではどこが違うのか。

「ちょっと考えたくらいじゃわからない」ことを考えるから思考力が磨かれる。知ってることをなぞったり再構築するだけでは、知識も思考もたいして広がらないし深まらない。だからその逆だな。

逆ってのを具体的にしてみると、考えるというのは、
* 不明瞭なものを明瞭にしていく作業。不明瞭なものが不明瞭なまま形を変えることを考えるとは言えない。
* 判断基準に従って判断を重ねること。判断基準が明瞭でないなら、判断基準を明瞭にするところからはじめないとならない。
* 考えるとは問いに対する回答であり問いがなければ成立しない。問いこそが考えることの出発点。

なので、問いの立て方を間違うと出てくる答えも間違ったもの、役に立たないものになる。「どんな問いにするか」というのは、目的にそった思考をするためにとても重要な問いだ。

さらに、「考えるというのはゴールにたどり着くための行き方を検討する」という言い方もできる。この場合のゴールとは目的のこと。問いを立てる時に、どんな答えを想定するのかによって思考を進める方向が変わる。

すごく単純な問いを立ててみよう。
「新宿に行くためにはどうすればいいか」

これは新宿に行くための行き方を問いにしている。なので、早く行くか、安く行くか、わかりやすく行くか、答えの方向は3種類くらいしかない。

ここで、新宿に行くのに徒歩と車とヘリコプターのどれで行くべきかとか、新宿といってもそれは東京の新宿なのか別の新宿なのかとか、いつの時代の新宿のことなのかとか、問わなくてもいいことも問うことは可能だ。だけど特殊な状況でもない限り普通は意味がない。

この時、言葉にわざわざ出してはいないけれど細分化して考えてみると、自明なことは内心で定義されている。

「(今から、何時までに、◯◯から)新宿に行くためにはどうすればいいか」

この()内のように、自明なことが想定されている。今、自明と書いたけど、自分で立てた問いじゃなければ自明じゃないよね。自明でない条件がある場合は、もちろん明確にしなければ問い自体があやふやになってしまう。だから問いの条件すべてを明瞭にしないとならない。

問いを明瞭にするというのは、

  • 問いの目的を明瞭にし、
  • 問いの条件を明瞭にし、
  • 問いの言葉の意味を明瞭にし、
  • 導き出したい範囲を明瞭にすること

だ。そして当然、問いに対する答えも明瞭でなければならない。

目的を明瞭にし、条件を明瞭にし、言葉の意味を明瞭にし、例外も明瞭にし、「それを説明するのに必要充分な情報をできるだけシンプルに整形すること」で明瞭になる。

総合して乱暴な言い方をすると、
「考える」とは、
問いから答えを導き出す過程のすべてを、
誰もが再考できるように順序立てて、
明瞭かつ必要充分に説明しきれるようにする作業

ということになる。今のとこ。