愛の正体
執着。
もっと言えば関係そのもの。
そもそも善悪で判断するものではなく、向けられる感情によって見え方が違ってくるもの。
善意の愛の形として想像されるものは、親子の情や恋愛感情などと思われる。対して悪意の愛の形として想像されるものは、恨みや憎しみなどだろう。しかし善意であろうと悪意であろうとそれ自体は結果を左右しない。受け取り手の受け取り方によって良くも悪くもなる。
相手のために良かれと思ってやったことでも、過保護であったり迷惑であったりもする。恋愛では行き過ぎた愛情がストーカー被害につながることもある。親切心がよけいなおせっかいと受け取られることもある。
また、相手をうらみに思い憎んでした行為が、結果として何かの気付きを得たり、個々の成長につながったり、互いの良好な関係に転じたりすることもある。
結果ではない。それは、愛の対極にあるものを見ればわかる。
無関心、あるいは無視。
この忌むべき最強の虐待は、最も人のこころを傷つけ、人間の尊厳を踏みにじり、この上ない不幸を感じさせる。
また、愛と呼ばれるものにはふたつの性格がある。
ひとつは強さ。これは執着の強さ。
ひとつは深さ。これは関心の高さ。
悲しいことに、強い愛が高い関心を伴っているとは限らない。
執着は愛の対象を間違うことがあるから。
可愛がっている部下や社員や子がいたとして、そこに執着があるとする。しかし関心は、その部下や社員や子の成長や人生の充実にではなく、じぶんの利にあったりするのだ。
なのに本人は部下や社員や子を愛していると「信じて」いたりする。
執着があり関心がない状態。
よく見かける虐待の構図。
愛の正体は「こちらがどう思っているか」にはない。
「相手がどう感じるか」にある。
愛されている実感を言い換えれば「じぶんに対する好意的な関心を持ってもらっている」という実感だ。その実感は本人にしかわかるまい。
「こんなに愛しているのに!!」とこちらがいくら思ったところで、それは独りよがりの感情の押し付けでしかなく、それは愛とはむしろ真逆の感情だろう。相手に対する関心よりも、じぶんに向けられる関心の方が高いのだから。
では「じぶんに対する好意的な関心を持ってもらっている実感」とは何なのか。それを実感して当の本人はどう思うものなのか。
無関心の真逆、「幸せ」だ。
好意的関心もたしかに一見すると愛のように見える。しかし「当の本人」がそれを幸せなことだと思えなければそれは愛ではない。他人が見て打算がなく真に愛だとしても、愛の要件を満たさない。相手に通じなければそれは愛と呼ぶに足りない。暴論かも知れないが、受け取り手が幸せを感じられなければ、愛は成立しない。受け取ってもらえない愛は幸せをもたらさない。それは人の愛の常だ。
しかしまたこうも言える。
じぶんを取り巻く多くの愛に気付くことができるとしたら、すべての人が愛に包まれていることが見えるだろう。多くの愛に気付き、受け取ることができたなら、幸せを感じることができるだろう。神の愛がそうだ。
宗教的な話がしたいんじゃない。
人に幸せをもたらすもの。
それが愛の正体だ。