「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

悩んでしまうのはなぜなのか

「悩んでいる」

「ずっと考えてるけどどうしたらいいのか」

 

本人は「悩んでいる」から「考えている」と思っているんだろうけど、悩むというのは考えてはいない。それは迷いだ。

 

悩みの原因の大部分は「決定しない」ことにある。決定を保留しているからいつまでも解決しない。当たり前の話だ。

 

悩むのはすべて当人に原因する。どんな場合でも。個別の「悩みの原因」が常に当人にあるのではなくて、「悩むこと自体の原因」が当人にあるということだ。悩むやつはどんなことでも悩むし、悩まないやつはどんなことでも悩まない。

 

決定しないから悩むのだ。

 

問題が起きたときに選べる選択肢はわりかし限られている。その中で、何が最善か、何が正しいかと考えるから悩む。損を、失敗を、したくないから決定を先送りにして悩む。

 

悩む人がわかってないのは、行動しないこと、決めないことは結構大きな失敗である場合もあるということだ。先送りにし続けることが不利益を生む。

 

他の人と同じ選択をしたからといって、他の人に訪れた不幸や不運がじぶんにも訪れるとは限らず、他の人に訪れた幸運がじぶんにも訪れるとは限らない。選択の結果が常に同じとも限らない。結果はそのとき次第。幸運に見えることが将来に渡って幸運であるとも限らない。不運もまた然り。

 

すべての結果は次の選択の始まりだ。結果は結果であり、実は正しいも間違いもなく、こうしたらこうなったということでしかない。同じことのやり直しはできないかも知れないが、別のことはやれる。それをどう思うかだ。

 

この人生の成功も失敗もじぶんの人生に起きるすべての出来事の責任はじぶんにある。他にはない。決定しないのは当人以外の責任にはなりようもない。だから当人の責任だ。じぶんの責任において選択することでしか解決はできない。

 

名前も親も子も境遇もじぶんで決めてないし選択できるものではないと言い、それが嫌だと言う。嫌なら死ねばいい。死ぬのが嫌なら全部受け入れて生きればいいだけだ。都合よくいいとこ取りして生きたいという欲がそれをさせない。

 

人間は生きている以上、常に選択し続けて生きている。当人の生の全責任は、選択した当人にしかない。全責任を受け入れて人生を全肯定して生きようと、全責任を他人に転嫁して人生を全否定して生きようと、どちらでもいいのである。どちらを選ぶかは当人の責任でどうぞということだ。

 

 

また、考えるというのは建設的なことだ。堂々巡りは考えていない証拠だ。なぜそうなるのか。考え方を知らないからだ。

 

悩む人はじぶんが何を欲しているかを自覚していない。自覚していないから答えがわからない。そりゃ考えもまとまらないわ。

 

答えが想像できない問題は解くのがやたらと難しい。AかBかどっちかだと想像できれば、背理法でもなんでもやりようはある。でも、無数の答えの中からたったひとつの正解をみつけるのは至難の業だ。

 

一発で正解を見つけられないなら、「少なくともAではない」とか、「どっちかと言えばB」とか、範囲を狭めながら考えを進めればいいのだ。

 

考え方の技法は様々あるけど、一番重要なのはじぶんが「どうしたいか」「どうなりたいか」を自覚することだ。それを自覚していないと進みたい方向がまったくわからん。悩むだけ無駄だ。

 

じぶんなりの答えは「どうしたい」「どうなりたい」をじぶんに問い続けた先に必ずある。これは、じぶんに問わなければ見えない。

 

それはつまり「じぶんの哲学」だ。

 

目的が異なれば生き方も大切なことも異なる。それは考え方の基準、判断基準が異なるということだ。これは目的に対して決まる。

 

自分なりの目的と基準を持っていなければ、進むべき方向がわからないし判断もできない。そんな状態で考えを積み上げることはできない。

 

「考える」というのは【ゴールに向かうための行き方を検討する】ということで、ゴールがわからないのに行き方を考えても考えられるわけがない。