「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

幸せの構造

幸せってのは、不幸とセットだ。カードの裏表のようなもの。

「不幸はいらない」ってのは虫のいい話で、不幸も苦労も無いなんて選べるものではない。デキゴトってのは勝手にやってくるものだ。それを幸と受け取るのも自分だし、不幸と受け取るのも自分なのだ。自分が決めている。

人間は快楽を求める。快楽こそが幸福だ。*1
しかし、自分の快楽のために自分以外を不幸にしてしまえば、長く続けさせてもらいにくくなる。続かなければ不満も出る。そして「自分は幸せではない」と思ってしまう。

大きな快楽を求めれば、目の前の小さな快楽に気づかなくなる。気づかなければ、手に入らない大きな快楽にばかり目が行って、これもまた「自分は幸せではない」と思ってしまう。

おかずが少なくても、米の美味しさを存分に味わって食べれば満足できる。
小さな幸せを味わい尽くさない心が不幸を呼ぶのだ。

また、他人の幸せをうらやめば、自分が持っている幸せを軽んじる。無いものばっかり欲しがって、持っているものの良さに気づこうとしない。それを無い物ねだりという。自分の価値に気づかないのも同じ事だ。

他人のモノサシ(幸せの基準)に自分を当てはめて、自分を軽んじる。
そんなことをしていて、幸せになれるわけがないのだ。

デキゴトにもモノゴトにも、幸と不幸の両面がある。どちらを見るのも自分次第。
小さな幸せを喜ぶのも、そんなものと思うのも自分次第。
自分の幸せは自分で決めているのだ。

他人のモノサシに自分を当てはめると、当てはまらないところばかりが目立つ。
こう生きなければ。
こうしなければ。
できないのは努力が足りない。
そうやって窮屈なところに自分を押し込める。息苦しい。生き苦しい。

幸せは自分が求める快楽が手に入ることだ。
他人のモノサシに、自分が求める快楽なんか無い。
自分のモノサシにしかないのだ。カッコいいだのキレイだの、周囲の評価はすべて他人のモノサシだ。他人に気に入られることを幸せだと思っていたら間違いだ。それは幸せの形をした不幸そのものだ。

自分のモノサシで生きることが、幸せになるための条件なのだ。


自信の構造 へ続く

*1:賢明な読者の方々はこれが肉体的とか享楽的とか刹那的とかの快楽だけを指しているとは思わないだろうけど念の為。いちいち全部を詳細に書かないし専門的な言葉も使わないだけでそんなに浅いことはもちろん想定するわけがない。まあそんな「ザ・揚げ足取り」みたいな反論を思いついて悦に入るような「頭のいいおバカさん」はこんなの読まないだろうけど。